野村胡堂 銭形平次捕物控(巻十二) 目 次  痣《あざ》の魅力  雪の精  くるい咲き  買った遺書《かきおき》  痣《あざ》の魅力     一  八五郎は平次の代理で淀橋《よどばし》へ行った帰り、真夏の陽にてらされて柏木《かしわぎ》の飲み屋に飛び込みました。時分《じぶん》どきは過ぎておりますが、朝っから空き腹をかかえて、この上はちょっとも動けそうにもありません。とりあえず一杯引っかけて眼をあけてみると、正面の壁に貼《は》ったのは、お定まりの飲み屋の憲法、一つ掛売りはつかまつらず候、一つ杯のやり取りは厳くお断り申すべく候、云々《うんぬん》と散らし書きにして、年月日の下に、大風《おおかぜ》屋友右衛門と結んであります。  恐ろしく変った名前です。八五郎は勘定《かんじょう》を済ませて、その口上書の下を見ると、およそ貧弱で青白い男が、算盤《そろばん》を斜《しゃ》に構えて、耳をふせております。これが主人の大風屋友右衛門であるに相違なく、それにしては貧弱過ぎます。  店の中には、ふたりの男が将棋を差しておりました。一人はよく肥った不精《ぶしょう》ひげの四十男、相対《あいて》は二十代の若い男、将棋は申し分なく下手らしく、四十男にこき廻されて、鼻の頭から汗をかいております。  しかし、この男は非凡の男振りでした。四宿のほかにもこんな男があるのかと思うほど小意気な風体で、やや浅黒い皮膚の色、切り立ったような鼻と、少し引き締まり過ぎはしないかと思う唇、遊び人風ではあるが、魅力はまことに満点的です。  もっとも二人の掛け合いはそれにもまして活溌でした。洒落《しゃれ》と地口を濫発《らんぱつ》して、負けず劣らず応酬するうちに、将棋は二三番片づいてしまいます。  まだ夕飯は早く、昼の仕度に遅く、店はこの上もなく閑散でした。八五郎のような変り種が来なかったら、しばらくはこの二人組に店じゅうを占領されることでしょう。午後三時の田舎の飲み屋は、どこへ行っても、こんな暢気《のんき》なものです。  が思いも寄らぬ大事件が起こりました。変にこう店じゅうはしずまり返って、女どもは晩の仕度にお勝手に引き下った頃、事件が起こったのです。 「あッ」  今まで将棋を差していた、若い良い男が自分の肩を押えて飛び上ったのです。見ると洒落者らしい小意気な単衣《ひとえ》をひたして、血がたらたら流れているではありませんか。 「どうした、染吉」  対手《あいて》の鬚男《ひげおとこ》も立ち上がりました。 「槍が飛んできたのだよ」 「槍?」  見ると染吉と言われた男の肩を削った槍の穂は、わずかに急所をはずれて畳の上へザグと突っ立っているのです。さんざん酒と汁物《つゆもの》を吸った畳は茶色に変色しておりますが、槍の穂は真新しく、血に渇いて不気味な色を湛《たた》え、斜《はす》に突っ立った角度さえただごとではありません。  女どもはお勝手から繋《つな》がって飛び出しました。お元、お紋、お政と顔を並べると、カッとするような綺麗なの、新宿にも、こんな筋の通ったのは揃っちゃいないと思うようなのが、柏木の大風屋を明るくしているのが、土地の誇りでもあったのです。 「あッ、その槍を引っこ抜いちゃいけない、どこから飛んで来た槍か、それが知りたいんだ」  八五郎がそこにいたのは幸せでした。畳の上に斜めに突っ立った槍を庇《かば》って、一方は染吉の手当をさせるのに忙《せわ》しかったのです。 「なアに、傷は引っ掻きみたいなものだ、療治にも手当にも及ぶものか」  染吉は威勢の良いことを言っております。こんな肩なんかは、家へ帰ると二三十は転がっているような話です。  家の者は、ほかに半病人の女房のお房だけ、だれも怪しいものはありません。三人の女どもと、女房のお房の顔が揃ってみると、ほかに槍を放る者はあるはずもなく、亭主の友右衛門と将棋の相手の辰五郎は、八五郎の眼の前にいたのですから、これは槍の穂を投げるはずもなく、悪戯者《いたずらもの》は塀を攀《よ》じ登って、境の塀の下から、窓越しに放ったとしか思われません。  しかしなかなかの手際らしく、槍は古畳の上に五寸もめり込んでおります。これを首筋にでも受けたら、染吉は間違いもなく殺されたことでしょう。冗談にしては放っておけない仕業《しわざ》です。     二  八五郎は大風屋を出ました。  事件は到ってつまらぬことですが、眼の前で起こったことでもあり、美しい女どもが三人も揃っていることでもあり、八五郎にしては妙に気になります。  武蔵野の一隅、吹きさらしの柏木に、大風屋とはよく言ったものだ、と八五郎は感に堪《た》えております。そのとき一陣の風が吹いて、武蔵野の砂埃《すなぼこり》を顔いっぱいに浴びせます。 「こいつはひどいや」  クルリと後向きになると、正面に立ってにっこりしている者があります。  張り切った豊満さ、ツイ先刻《さっき》別れて来た大風屋のお紋という娘でしょう。 「まア、遅い足ねえ」  ニッコリすると笑靨《えくぼ》が寄って、眼が細くなります。二十二三でしょう、かなりの年増ですが、色っぽさは非凡です。 「足が後ろへ引かれるのだよ、お前は大風屋から追っかけて来たのか」  八五郎は陣を立て直しました。神田へ帰るまでには陽は落ちそうですが、せっかく良い女に声をかけられて、後ろを見せるのは男の恥のような気がしているのです。 「お前さんはお上の御用聞でしょう。隠したって駄目、言葉尻でもわかるし、懐に突っぱらかった、十手はただごとじゃない」 「そんなことはどうでもいいとして、なんか用事があるのかい」 「お前は初めてだけれど、あの男が殺されかけたのは、これで三度目さ」 「なんだと?」 「一度は柏木の大風屋から、自分の家へ帰るところを、闇の中から斬り付けられたし、一度は留守の長屋に忍び込んで、飲みかけの燗《かん》ざましに、毒を仕込んだ野郎があるんだってさ——幸い味が変っているんで、飲まなかったから助かったけれど」  そんなことを言ううちにも、お紋の眼はとろけそうに笑うのです。 「お前はそんな事を言っても良いのかえ?」  八五郎は真剣になりました。お紋の話は妙に突き詰めるのです。 「だって、私はもう近いうちにあの家を出るんですもの。お神《かみ》さんと喧嘩をして、私は給金の残りを棒に振ることにきめたし、お神さんはそのせいで、朝っからフテ寝をしているんですもの、窓からそっと飛び降りて、裏梯子《うらばしご》を二階へ登ることだってできるじゃありませんか」 「お前は、お神さんがあやしいと言うのか」 「そうじゃありませんが、そうも取れるじゃありませんか。染吉は元は紺屋《こうや》の職人だし、男が良くて、妙に浮気だから——」 「待ってくれ、その染吉が、お神さんに怨まれる筋でもあるのか」  八五郎もここまで突っ込みました。お紋の言い草が妙に気になるのです。 「打ち明けて言ってしまいましょう。大風屋の御主人は四十五六で、良い加減年寄り臭いけれど、お神さんのお房さんは、まだ三十そこそこで若くもあるし、綺麗なんですもの、色師の染吉は放っておくわけもありません。朝から晩まで大風屋に入り浸って、下手な将棋なんかしているのは、こいつはただごとじゃないじゃありませんか」 「それから?」 「その染吉が近ごろ急に私と仲よしになりだしたら、誰かが闇討《やみうち》をかけたり、槍の穂を飛ばしたくもなるじゃありませんか」  お紋は言うのです。そんな関係でお神と喧嘩をして、あの家を出ることになったとしたら、お紋もツイ癪《しゃく》にさわるでしょう。 「まあまあ考えておこう、染吉の傷は大したこともないし、槍の穂が長押《なげし》から、滑り落ちないものでもあるまい。神田へ行って、御用が片づいたら、またやって来るぜ、お前もかかり合いだ、出るの退くのと言わずに、もう少し辛抱してみるがよかろう」  八五郎はこんなことにして、クルリと後ろを振り向きました。かかり合ったところで、せいぜいが痴話《ちわ》喧嘩で、あまり大したことではありません。 「そうしてみようか知ら、お神さんは癪にさわるけれど」  お紋はそんなことを言って、元きた道を柏木へ帰って行くのです。 「チェッ馬鹿にしてやがる」  大きな舌鼓《したつづみ》を一つ、八五郎は馬糞《まぐそ》だらけの風に迎えられて、神田へ帰るほかはありません。 「ちょいと、親分さん」  八五郎はまた呼び止められました。大木戸ちかくへ来た頃です。  振り返ると、お紋より若くて、男顔をしたお政という娘——これも大風屋で見た顔です。八五郎の跡を追って来たのでしょう、引き締まった十八九、眉も太く、張り切った顔も、妙にきりりと引き締まった唇も、美しくはあるが近づき難いものがあります。  男顔の女の子——こういった鼻の下の短い顔は、江戸の下町にはよくあったもので、歌舞伎役者によくある不思議な魅力があります。 「俺かい」  八五郎は顎を引きました。大風屋の三人娘のうちでも、美しくはないが、妙に印象的な魅力です。 「申し上げたいことがあるんです。——お政さんはあんなことを言ったけれど、私はあの家の裏口にいたんです。洗濯物を取り込んでいたんです。お神さんが窓から脱け出して二階へ登れば見えないはずはありません」 「お前はなぜそれを、お紋に言わなかったんだ」 「あの人は怖い人ですもの、私がお神さんの肩を持っているようで」 「……」 「お紋さんが追っかけてきて、親分に話しているのを聞くと、黙っていられなかったんです。お神さんはなんにも知りゃしません。闇討だって、お神さんにできるわけはないんです。染吉さんは良い男だけれど、元は紺屋《こうや》の職人で力があるんですもの」  大風屋の女房のお房は、ちょいとした年増《としま》ではあるけれども、紺屋の職人だった染吉を、襲えるはずもありません。     三  その晩、八五郎が明神下の平次の家へ行ったのはまだ宵のうちでした。淀橋へ行った、その日の用事を果たした後、 「何しろ、槍の穂が飛んで来て斜めに畳に突っ立ったんでしょう、槍や鉄砲の降る日よりじゃなかったでしょう」 「槍の降る天気というものはないよ」  八五郎は、柏木の大風屋で起こった槍の穂の一埒《いちらつ》をこんな調子ではじめました。窓から放り込まれたらしい槍の穂で、良い男の染吉が怪我をしたことから、八五郎の帰りを追っかけて、お紋が妙なことを言い出した話、疑えばお神のお房に怪しい事情がうんとある話、それからお紋という娘がその後からやってきて、お神にかかる疑いを解いた話、 「まアこう言ったわけで、染吉の怪我も大したことはないから、詮索《せんさく》だてをするほどの事はあるまいと、あっしもそのまま戻って来ました。大木戸を越すと、妙なことがありますよ、槍が降ったり、鉄砲が降ったり」 「厄介なことになりそうだな、——ほかに何か気のついたことはないのか」 「なんにもありゃしません、風が吹けば瀬戸物屋は儲《もう》かる話は聴いたが、槍の穂が飛んでくる話は始めてで」 「なんだつまらねえ」 「でもあのお紋という娘は大した者でしたよ、二十二三でしょうが、大年増もあのくらいになると劫《こう》が経《へ》て世辞《せじ》愛嬌もピカピカする。新宿にもあんなのは滅多にありません」 「余っぽど油をかけられたとみえるね」 「その敵役《かたき》のお神、——お房さんと言ったが、これは青白くて半病人で、昔は良い女に違いないかも知れないが、今じゃ大したものじゃありません。それに比べると、お政というのは、若いけれども後光《ごこう》が射す」 「若い娘を見ると、皆んな後光が射すんだろう。お前という人間は」 「眼も眉も大きい男顔ですよ。鼻の下がつまって、様子が良くて、ヘッヘッへッたまらねえな、江戸の下町には、あんな娘がよくありますよ。業平朝臣《なりひらあそん》が東下りをした時の、落し種かも知れませんね」 「馬鹿野郎」 「あの力んだ顔というものは、たまらねえところがありますよ。そのうえ御近所の衆の噂をかき集めると、あのお政という子の右の脇下《わきのした》には、赤い梵字《ぼんじ》の痣《あざ》があるんですってね」 「……」 「赤い梵字の痣ですよ、石塔や道祖神に書いてある、あの梵字ですよ。なんと読むか知らないが、こいつはただごとじゃないでしょう、お政はたった十八だ、それを滅入るほど恥かしがって、滅多なことでは人と一緒に風呂へも入らない」 「誰がそれを見たんだ」 「誰も見たわけじゃありません。十八娘の搗《つ》き立ての餅のような肌に、真赤な梵字が朱で出ている、——こいつはたまらないでしょう、親分の前だが——」 「馬鹿だなあ、俺はそんなものを面白がっているわけじゃないよ」 「お政と言わずに、それから梵字のお政と言っている。本人もひどく気にして、滅多なことでは、人様に肌を見せない」 「それだけの事か」 「まだ一人お元という小女がおります。こいつは年も若く下女代わりで、大したことはありません」 「大風屋の主人というのは?」 「店で将棋を見ていましたよ、槍の穂なんか投《ほう》れるわけはありません。四十五というにしては、皺《しわ》だらけの貧乏くさい男で、お神さんがふて寝をしていても、どうすることも出来なかったでしょう」 「ところで、染吉を怨む者はほかにもあることだろうな」 「それはいうまでもありません、新宿一番の良い男で、小造りながら申し分のない色師ですよ、新宿を通ると、煙管《きせる》の雨が降るそうで、怨み手はこの土地だけでも百人はありますよ」 「話が大きいぜ」 「あっしもその怨み手の一人で」 「勝手にしやがれ」  平次は声を立てて笑いました。     四 「親分、善七親分が来ましたよ」  八五郎が飛び込んで来たのは、その翌る日も昼近くなってからでした。 「なんだと?」  新宿から柏木を、しっかり押えている老巧の善七親分が、神田までやってくるのは容易のことではありません。 「染吉は|やられ《ヽヽヽ》ましたよ」 「何?」 「新宿の染吉の宿で、あの男がたった一人で殺されていたんです」 「わけがありそうだ。善七親分と一緒に行ってみよう、八」  平次が動き出す気になったのは、この事件の奥に、常識で考えられない、不思議なものがあるような気がするのでした。  神田から新宿まで、近い路ではありませんが、精いっぱいに急いで陽のあるうちには辿《たど》り着きました。  染吉の宿は、追分《おいわけ》近い裏通りで、若い遊び人らしい気楽な一人住居でした。家の中は善七の子分でいっぱいに堅め、弥次馬なんかは寄せつけることではありません。  家はたった二間、奥の六畳は血だらけで、後ろから背中を突かれた染吉は、醜《みにく》い虫《むし》のように転がっております。  平次は引き起こして検べましたが、肩先に近く、心《しん》の臓まで突っ立てた拳《こぶし》下りの傷で、物も言わずに息が絶えたことでしょう。刃物は双刃《もろは》の匕首《あいくち》らしく、世の常の道具ではなく、平次にも見当はつきません。 「八、お前に働いてもらいたいことがあるよ」 「ヘエ」  八五郎は長い顎を持って来ました。 「この近所に社《やしろ》かなんかあるだろう、そこを捜《さが》し出して、奉納《ほうのう》の額を見てくれ。刀とか槍の穂なんか刃物がなくなったところがあるに違いない」 「ヘエ」 「お前一人では手が廻るまい、善七親分に頼んで、下っ引を三四人狩り出すがいい、案内は土地の者が知ってるぜ」 「やってみましょう」  八五郎は気軽に飛んで行きました。こうしておけば瞬く間に方十町くらいはあらゆる宮社を捜してくることでしょう。 「こいつは銭形の、曲者はよっぽど背の高い男だろうと思うが」  平次と一緒に染吉の死骸を調べていた善七はそんなことを言うのです。 「?」 「見るが良い、この傷は上から拳下りに突いた傷だ。染吉は背の高い方ではないが、人に見下げられるほど低くはない、その染吉を拳下りに突くのは、雲を突くほどの大男に違いない」  善七の言うのはもっともでした。傷は明らかに肩口から下向きに物凄《ものすご》い双刃で突き刺したものに違いありません。  そんなことを話している時でした、善七の子分衆が染吉の家の廻りを捜しているうち、下水の中に突っ込んであった、双刃《もろは》の剣を一本捜し出して勝ち誇った顔でやって来ました。 「親分こんなものがありましたよ、こいつはお神楽《かぐら》かなんかでなきゃ、使い道はありません」  それは生血に彩られた、斑々《はんぱん》たる双刃剣ですが、奉納のために打ったものらしく、長さは一尺二三寸、須佐之男命《すさのおのみこと》が大蛇《おろち》退治に用いたにしては少し短か過ぎますが、さして錆付いてもいず、ギラギラして見たところあまり気味がよくありません。 「こいつでやられたんじゃ、手もなくなぶり殺しだ。染吉は名題《なだい》の女殺しで、生きているうちは、さんざん罪を作ったから」  善七とその子分達はそんなことを言っています。  まもなく八五郎は下っ引と一緒に戻って来ました。 「親分わけはありませんよ、すぐ近くに天神様があって、社の横の奉納額が剥《は》がされているじゃありませんか」 「そいつは手柄だ、双刃の剣を下水で見付けたから、それを天神様の額から引っ剥がしたんだろう」 「八岐《やまた》の大蛇《おろち》を退治しそうな、真新しい剣だそうで、あ、これですよ」  八五郎は早くも血だらけの剣を見付けました。 「ほかに無くなったものはないか」 「奉納の槍の穂が一本、こいつは少し古い名槍だそうで、中子《なかご》を入れると、二尺あまりもある、笹穂の見事な品だというから、こいつは大風屋で染吉が投《ほう》られた槍じゃありませんか」 「行ってみよう八、大風屋には調べたいこともある」 「ちょいと一と走りですよ」 「待ってくれ、昨夜《ゆうべ》のことを少し聴いておきたい」  平次と八五郎はもういちど近所の衆から、噂《うわさ》をかき集めてみました。染吉の日頃は誠にさんざんで、年中女出入りだらけ、そのために身を投げて死んだ者、行方知れずになった者が、いく人あるかわからない始末です。 「元は紺屋の職人で、腕《うで》っ節《ぷし》も強かったが、女出入りも、賑やかなことでしたよ」  隣の親爺も酸っぱい顔をしております。 「昨夜どんな人間が来たか、見当くらいはつくだろう?」  と訊くと、 「毎晩変な野郎が出入りしますよ、どこの者か見当も付きませんが、もっとも一昨日《おととい》怪我をしたそうで、昨夜は神妙に籠《こも》っていましたが、夜半過ぎになって、女の声がしたようですが、あの時刻に染吉のところに来る女じゃ、どうせまともな人間じゃないでしょう」  親爺はそれを、まともな人間であり得ようはずはないことにして、起き出してもみようとしなかったのでしょう。染吉の殺されたのは夜半過ぎだとすると、その女が曲者だったかもわかりません。     五  柏木の大風屋は、何事もなく商売をつづけておりました。亭主の友右衛門は相変らず大神宮の下で、不精鬚《ぶしょうひげ》を抜いており、三人の娘達は夕方の忙しさに、お神さんのお房に叱り飛ばされながら、それぞれの仕事を励んでおります。  女房のお房は|ふて《ヽヽ》寝にも飽きた様子で、機嫌よく平次を迎えましたが、殺された染吉のことが気になる様子で、いくらか青い顔をしております。 「大変な騒ぎだったね、染吉は死んでしまったよ、染吉が来ないことになると、お前の家も淋しかろう」  平次は八五郎にこんなことを言わせて入りました。亭主の顔色が見たかったのです。 「ヘエ、お気の毒なことで、大したためになる客でもありませんが、ご贔屓《ひいき》にして下すった方が一人でも減ると、私の方は心細うございます。御検死が済めば、御挨拶だけにでも伺いたいと思いますが、ヘエ」  なんという図々しさでしょう。 「そうするがいいよ、ところで前の日染吉に怪我をさした槍の穂を見せてもらいたいが——」 「これでございますよ、親分」  亭主は押入れを開けてさっそく古い風呂敷に包んだ、二尺余の槍の穂を出して見せました。 「笹穂の槍だが、大した錆《さび》も来ず、こいつは良い道具だね」  平次はその槍の穂を眺めております。見事なものらしいというだけのことで、それが誰の作ともわかるわけではありません。 「そいつを窓から放ったんで、染吉は肩を縫われましたよ、真っすぐに来れば命取りで」 「ちょいとその窓を見せてもらおうか」  平次はそこから見える窓を丁寧《ていねい》に調べました。  荒いが頑丈な格子をはめた三尺の窓は、人の背に比べると少し高く、そこから店へ槍を投げ込めそうもありません。 「八、ちょいと見てくれ、窓は高い上に、格子が打ってあるぜ。そのうえ塀があって人間は窓へ近寄れない。どうすればここから店へ槍を投げられるんだ」 「ちょっと、やってみましょう」  八は槍を持ち出してみました。塀越しに放り込む工夫もなく、 「お前でもその芸当はむつかしかろう、——ところで、その窓の上に物干場の柱があるじゃないか、二階から物干場へ出られるだろう」  平次は二階へ廻りました。窓の真上には濡《ぬ》れ縁《えん》があり、その上は物干場になって、ぞんざいな柱で支えてあるのです。 「その物干場から柱を滑って降りられやしませんか。物干場から窓は近いから、そこからなら槍でも鉄砲でも放り込めますよ」 「待ってくれ、お前はなかなかうまい事を言うよ、店の中は大騒動をして、槍をほうった場所には気が付かなかったかも知れない。だがな八」 「まだ変なことがありますか」 「柱は古くて疵《きず》だらけだ、こいつを滑り落ちると請合い棘《とげ》を刺《さ》すよ、——見るがいい、このとおり木が割れているじゃないか」  外からそっと二階へ登り、槍を飛ばして、柱伝いに降りると、井戸の後ろの方、建物の蔭へ降りられないこともありませんが、人に見られなくとも曲者は、ひどい棘に痛めつけられずにはすみません。 「八、ここは柏木だな」  平次は妙なことを言い出します。 「それはもう、裏へ出さえすれば田圃《たんぼ》も畑もありますよ」 「そこで、俺は久しぶりに銭を投《ほう》ってみたくなったんだ」 「ヘエ?」 「女どもを皆んな集めてくれないか、裏庭で石灯籠を目当てに、二三十銭を投ってみようと思う。もっとも遠出をする積りで光ったのを少し持って来たから、小粒を交ぜて投ったら、拾う者の張合いにもなるだろうと思う」 「冗談じゃない、そんな事をしていいんですか」 「なアに勿体《もったい》ないことがあるものか、無尽が当って、俺は腐るほど金を持っているんだ、安心するがいい、取り抜け無尽だよ」  柏木へ来て、久しぶりの心のゆとりか、銭形平次は真面目《まじめ》にそんな事を言うのです。 「銭の親分が銭を投げるんだとさ、拾った者は拾い得だ、皆んなくるがいい」  その時はもう日が暮れかけておりました。店の留守番は主人の友右衛門に任せて、若い女がきゃっきゃと飛んで来たことはいうまでもありません。  石灯籠といったところで恐ろしく貧乏臭い品、それを目当てに平次は縁側に構えました。  相手はお紋、お政、お元に女将のお房を加えて四人、銭を投られる面白さに店へ客のくるのもしばらくは忘れておりました。 「さア、投《ほう》るよ、小粒が入ってるから、気をつけてくれ、小判か大判でも投りたいところだが、生憎《あいにく》小判は持ってない、いいか」  平次は夕闇の中に手を挙げました。 「あッ、それは私のよ」 「あッ小粒」  女どもはかき廻したような大騒ぎでした。平次の手からは四文銭の青銭が、二枚、五枚、十枚と、時には小粒も交ぜて宙を飛ぶのです。  その銭は大方三四十枚、小粒の数はざっと四つ五つ、 「もうないよ、——面白かったな、この次にくるときは、八五郎に二三貫背負わせてくるよ」  平次は手を打って縁側にニジリ上りました。  しばらくの遊びに、陽は落ちて、柏木あたりはもう真っ暗になった様子、この辺の食べ物屋は、日が落ちると急に淋しくなります。     六  平次はそれからお紋を呼び出して何やら囁いた後で、主人の友右衛門を呼び出しました。この辺は少し入ると田圃道《たんぼみち》でどんな大きい声を出しても、人に聴かれる心配はありません。 「田圃道もこの辺は悪くはないね」 「ヘエ、左様でございますが、毎日眺めていると一向気が変りません」 「ところで、お前はここへ来てこの商売をしてから何年になるんだ」 「十年にもなりましょうか」 「長い間にはいろいろの事があるだろうな」 「ヘエ、それはもう」 「奉公人達のことを一と通り聴《き》かしてくれ」 「ヘエ、ヘエ?」  主人の友右衛門はなんにも心当りのない顔をしております。  場末で十年も暮らすと、こんな取り止めもない顔になるのです。 「お神さんのお房さんは、どこから嫁に来た人なんだ」 「ツイ近所の、淀橋でございます。もう十年も前のことですが」 「お紋という娘《こ》があったネ、あれはどこの娘だ」 「土地の者でございます。三年にもなりましょうか、気象者《きしょうもの》で新宿へ売られるのが嫌だと言って手前どもへ転げ込みました。もらいや給金を溜めたんでは、いくらにもなりません。五両という大金を貸して、親元を納得《なっとく》させたのは、ツイ一年前のことでございますが、身許も引受け人もしっかりしております」 「とんだ良い娘《こ》だね、お政という娘の身許《みもと》は? あれは力《りき》んだ男顔だが、とんだ優しい娘のように思うが」 「ヘエ、あの娘については、いろいろ話がございます」 「?」 「四ツ谷の伝馬町に組吉というのがございます。厄介な男で、毎日のように新宿から柏木へ参りますが、私の家にさんざん飲み代を溜めて」 「お話中だが、それは何両という大金にでもなるのか」 「六七両でございます。やかましく申しますとその男の姪《めい》が一人日本橋にいるが、奉公先に困っている、年頃で放ってもおけないから、身許を引受けてくれるなら六両二分の溜った勘定はいますぐでも払おうとこう申します」 「?」 「身許引受け人のない奉公人は御法度《ごはっと》なこともわかっておりますが、そんなことで、ずるずると引受けたのが半年前でございます。洗い立てられると、迷惑をする者は私ばかりではございません。お聴きのがしを願います」  友右衛門は平次の身分を聞いたものか、田圃に手を突いて言うのです。  残る下女のお元については、なんの話もなく平次は黙って立ち上がりました。  元の大風屋、店も大方閉めて、八五郎と善七はぼんやり待っているのです。  思いのほか時が経ったか、その時はもう町風呂へ行ったお紋も帰っており、お政と一緒に化粧などを直しております。 「親分、待っていますよ」 「どうした八、お紋に頼んだことは」  八五郎は平次の姿を見ると、小部屋を開けさせて案内しました。  その晩は日暮れから風が出て、駅路《うまやじ》もひっそりしており、行灯が一つなんとなく物淋しい夜でした。 「あの娘にはなんにもありませんよ」  八五郎はいきなりこんなことを言うのです。 「なんだ」 「お紋は、お政を誘って町の風呂へ行きました。滅多に人に肌を見せないお政ですが、今夜は何を考えたか機嫌よく行って、パッと着物を脱いでくれたそうです」 「……」 「そのお政は梵字のお政と言われた娘だ、右の腋下に、大きい梵字で書いたような赤い痣があるということでしょう」 「それを見たというのか」  平次に言われると八五郎は大きく頭を振りました。 「なんにもなかったそうで、お政の脇の下は濡れ手拭で拭いてはいたそうだけれど、嘗めたように綺麗だったと言いますよ、梵字も阿保陀羅《あほだら》もありゃしません」 「それは本当か」 「私が見たわけじゃないんで、お紋が見届けたから嘘じゃないでしょう」 「……」 「どうしましょう、親分」 「仕方がない、四ツ谷伝馬町の組吉に逢って、お政の身許を聴いたうえ、遠くともすぐ日本橋へ行ってみよう」 「そんな事ならわけはありませんが」  平次はこんな驚ろいたことはありません。柏木から新宿まで、思い切り遠走りした上に、すぐまた四ツ谷、日本橋へ引返さなければならなかったのです。  しかしそれには及びませんでした。二人話が思わず声高《こわだか》になると、境の唐紙が向うからサラリと開いて、立て膝になったお政が、恐れ気もなく入ると、立ち上がろうとする平次を押し止めて、 「待って下さい親分、組吉はなんにも知りゃしません、日本橋へ行ったって私の身許はわかるはずはないんですもの」 「何?」 「皆んな申しましょう。私の腋の下にはなんにもありゃしません、梵字の赤い痣があると言ったら、さぞ世間の評判になるだろうと思ってやった事なんです」 「……」 「染吉の気違い野郎はその赤い痣を見たさに気が変になるほど私を追い廻しました。私はそれを釣って半年の間じらし抜いたうえ、昨夜染吉の宿に押しかけ、紅《べに》で描いた腋の下の痣をのぞかせ、その隙を狙って隠し持った剣を背中へ振り落したんです、私は人殺しをしました、それを見破った銭形の親分は、やはり評判どおり見抜いていたんですね」 「……」  平次は黙ってこの少女の逞《たく》ましさを見上げました。腋の下に梵字の赤い痣を描くのは容易の知恵ではありません。女喰《おんなぐい》いの色師《いろし》の始末にいけない染吉はその痣を、お政の白い腋の下に発見しようと、夢中になったことでしょう。 「さア、縛《しば》って下さい、縛られて行って、私は御白洲《おしらす》で言いたいことがあるのです」 「言いたいこと——それを聴こうじゃないか、お前がこの下手人だということを俺は見破ったんだ、お前が跛足《びっこ》を引いているのが変だと思ったから、俺は裏庭で銭を放ったはずだ、お前は柱を滑り落ちたとき、あの柱の棘《とげ》でひどい怪我をしたはずだ、そのとき裏庭で娘達は皆んな駈け出した。投ったのは三四十文の小銭だが、それを拾うのが面白かったに違いない、若い娘達はそんなことが大好きに違いない、ところが、お前は駈け出そうともしなかった、少し駈け出してもすぐ止してしまった、お紋に町風呂へ誘わせたのは、腋の下の痣も見たかったが、太股に傷があるのも確かめたかったのだよ」  銭形平次はしずかに説き進むのです。 「済みません、私は、姉の敵が討ちたかっただけに、あんな事までしてしまって」 「姉の敵?」 「私の姉は、お磯といいました、七年前に大風屋に奉公しておりました」 「えッ、それがどうした」 「お神さんも御主人様もよく知っているはずです、まもなく染吉と夫婦約束をし、染吉に騙《だま》されて大川へ飛び込んで死んでしまいました。染吉はそのとき二人も三人も約束した女があったんです、心中すると見せかけて、姉さんだけを殺してしまいました、お上の調べもそこまでは届きません、私は思わぬところで姉の書き置きを見付け出し、大風屋の人達の知らないのをいいことに、組吉に金をやって、ここへ住み込みました、三度も四度も染吉をねらいました、槍を飛ばしたのも私、奉納の剣を盗んだのも私」 「もう良い、新宿も柏木も俺の縄張り外だ——帰ろうよ、八」  その時はもう善七親分もいませんでした。平次と八五郎は、小部屋の中に泣き濡れる梵字のお政を後に、夜風に吹かれて外へ飛び出しました。  神田まではかなりの遠路ですが、平次はもう一文も持ってはいなかったのです。  雪の精     一  昼頃から降り続いた雪が、宵に小やみになりましたが、それでも三寸あまり積って、今戸《いまど》の往来もハタと絶えてしまいました。  越後屋佐吉《えちごやさきち》は、女房のお市と差しむかいで、長火鉢《ながひばち》に顔を|ほて《ヽヽ》らせながら、二三本あけましたが、寒さのせいか一向発しません。 「銭湯へ行くのはおっくうだし、按摩《あんま》を取らせたいにも、こんな時は意地が悪く笛も聞えないね」 「お前さん、そんな事を言ったって無理だよ。この雪だもの、目の不自由な者なんか、歩かれはしない」  そんな事を言いながら、ちょうど三本目の雫《しずく》を切った時でした。ツイ鼻の先の雨戸をトン、トン、トンと軽く叩く者があったのです。 「おや——」  お市は膝を立て直しました。宵とはいってもこの大雪に往来の方へ向いた、入口の格子《こうし》を叩くならまだしも、川岸《かし》へ廻って、庭の木戸から縁側の雨戸を叩く者があるとすると、全くただごとではありません。 「どうしたんだい」  と、佐吉。 「雨戸を叩く者があるんだよ。こんな晩にいやだねえ、本当に」 「開けてみな、貉《むじな》や狸《たぬき》なら、早速煮て食おうじゃないか。酒はまだあるが、肴《さかな》と来た日には、ろくな沢庵《たくあん》もねえ」  佐吉は少し酔っているせいもあったでしょう。爪楊子《つまようじ》で歯をせせりながら、太平楽を極めますが、いくらか酒量の少ないお市は、さすがに不気味だったとみえて、幾度も躊躇《ためら》いながら、それでも立ち上がって、雨戸へ手を掛けました。  同時に、もう一度トン、トン、トンと軽く叩く音、続いて若い女の声で、 「ここを開けて下さいな——」  と、大地の底から響くような細い声が、ハッキリ雨戸の外に聞えるのです。 「誰だえ」  お市は心張棒《しんばりぼう》をはずすと、思い切ってガラリと開けました。  角兵衛獅子《かくべえじし》の親方を振り出しに、女衒《ぜげん》の真似《まね》をやったり、遊び人の仲間へ入ったり、今では今戸に一戸を構えて、諸方へ烏金《からすがね》を廻し、至って裕福に暮らしている佐吉の女房です。鬼の亭主に鬼の女房で、大概《たいがい》の物に驚くような女ではありませんが、この時ばかりは全くギョッとしました。  外は真っ白——。  人間は愚か、貉《むじな》も狸もいる様子はなかったのです。  好い加減に積った雪は、狭い庭を念入りに埋めて、その上に薄月が射しているのですから、その辺には、物の隈もありません。庇《ひさし》の下はほんのばかり埋め残してありますが、物馴れたお市の眼には、そこに脱ぎ捨ててある、沓脱《くつぬぎ》の下駄までハッキリ読めるのです。 「誰もいはしない、変だねえ」 「そんな事があるものか、今も人の声がしていたじゃないか」 「そう言ったってお前さん、猫の子もいないよ」  お市はそう言いながら、戸袋に左手でつかまったまま、まだサラサラと降る雪の中へ、何の気もなく顔を突き出したのでした。 「あッ」  恐ろしい悲鳴。  驚いて佐吉が立ち上がった時は、お市の身体は、もんどり打って、雪の庭へ——、真逆様《まっさかさま》に落ちてしまったのでした。 「何て間抜けな事をするんだ。怪我《けが》をしないか」  佐吉はそう言いながら、縁側へ飛び出して差しのぞくと、お市の身体は雪の中に転落して、ノタ打ち廻りながら、 「お化《ば》けだッ」  辛《から》くもそう言った切り、がっくり崩折《くずお》れてしまった様子です。見ると、頸筋から噴出《ふきだ》した恐ろしい血潮が、お市の半身と、その辺の雪を物凄まじく染めておりますが、見渡したところ、縁の下にも、庭の中にも、お化けは愚《おろ》か、人間の片《かけ》らも見えません。  佐吉はそれでも、ようやく気を取り直して、女房の体を縁側へ抱き上げましたが、いつの間にやら、行灯《あんどん》を蹴飛《けと》ばして、灯りを消してしまった事に気が付きました。 「お駒、大変だッ、灯を持って来い」  少し離れているお勝手へ怒鳴《どな》ると、 「ハ、ハイ」  居眠りでもしていたらしい、下女のお駒は、手燭《てしょく》を持って飛び込んで来ましたが、その時はもう、何もかも済んでおりました。お市はすっかりこと切れて、三十女の豊満な肉体を、浅ましく歪《ゆが》めたまま夫の膝に抱き上げられ、越後者の、身体だけは丈夫そうな下女のお駒は、手燭を持ったまま、ガタガタ顫《ふる》えているのでした。     二 「八、こういうわけだ。石原の兄哥《あにき》の縄張りだが、利助兄哥はあのとおり身体が悪くて、娘のお品さんが代って仕事をしている有様だから、どうすることも出来ない。それに、越後屋佐吉という人が自分でやって来て、相手が人間だか化け物だか知らないが、あんまり人を馬鹿にしたやり口だから、何とでもして女房の讐《かたき》を討ってくれという頼みだ」  捕物名人銭形の平次は、子分の八五郎——一名ガラッ八へ妙にしんみりした調子で話して聞かせました。  少し人間は半間ですが、案外鼻の利く八五郎に、少しでも事件を扱わせて、行く行く立派な御用聞きに仕立ててやろうという平次の腹でしょう。 「親分、大変面白そうだが、下手人《げしゅにん》はいったい何でしょう」 「それが解らない」 「鎌鼬《かまいたち》か何かじゃありませんか」  小さい旋風が空中に真空の場所をつくるために、そこへ行き合わせた人の皮肉を破って、体内の空気が出ることがあるのを、昔は鎌鼬《かまいたち》または神逢太刀《かみあいたち》といって恐れたものです。 「鎌鼬《かまいたち》がまさか下駄を穿《は》いて来はしまい」  と平次。 「それじゃ、やはり人間かな」  どうもはなはだ血の廻りがよろしくありません。 「お市とかいう女房の喉笛《のどぶえ》を下から飛び付いて掻き切ったんだ。とにかく人間には相違ないだろう」 「佐吉夫婦に怨《うらみ》のある人間はありませんか」 「あり過ぎるほどだ」 「厄介な野郎だネ」 「角兵衛獅子の親方と、女衒《ぜげん》と、金貸しをやってたんだ。どこに敵がいるかわかるものか」 「ヘエ——」 「ここで考えたって始まらないよ。とにかく、行ってみるがいい、思いのほか手軽に解るかも知れない」 「親分は?」 「俺はそれからの事にしよう。他に用事もあるから、とにかく、今戸の殺しはお前に任せるよ。いいかい、八」 「弱ったなア」 「弱ることがあるものか、八五郎もこの辺が手柄の立て所じゃないか」 「そういえばそれに相違ないが」  子分おもいの平次は、これほどの手柄を、ガラッ八に譲ってやるつもりでしょう。二つ三つ肝腎《かんじん》な注意をすると、わが子の初陣《ういじん》を送り出す親のように、緊張した心で今戸の現場へ送り出してやるのでした。  ガラッ八が越後屋へ着いたのは、事件のあった翌る日の昼頃、係り同心が町役人と一緒に引き揚げた後で、お市の死体は奥の一と間へ寝かし、三輪《みのわ》の万七という顔の古い御用聞きが、二人の子分と、振舞酒《ふるまいざけ》に酔って、ボツボツ引き揚げようという間際でした。 「お、八兄哥か、大層鼻が良いんだネ」  と万七、まさか主人の佐吉が、親分の平次へ頼みに行ったことは知りません。相手が甘いとみて、少しからかい面《づら》になります。 「三輪の親分御苦労様で、——石原のが身体が悪いんで、|あっし《ヽヽヽ》が申し訳だけに覗《のぞ》きに来ましたよ。三輪の親分がいて下されば、ここから帰ってもいいくらいのもので、——ヘッヘッヘッ」  これは、親分の平次に、万一、三輪の万七に逢ったらこうとくれぐれも教わって来た口上。まことに行届いておりますが、お仕舞いのヘッヘッヘッだけが余計です。  そう言われると、万七も悪い心持はしなかったのでしょう。それに、どっちにしても石原の利助の縄張りうちで、八五郎をからかい過ぎるわけにも行かず、もう一つは、事件がいやに神秘的で、容易に見当が付きそうもないと思ったのでしょう。 「そう言われると年寄りの出しゃ張る幕じゃないようだ。八兄哥、話は聞いたろうが、どうもこの殺しは見当が付かないぜ」  そう言いながら、二人の子分と顔を見合わせて、妙にニヤニヤしております。  意地の悪そうな四十男。世上の噂《うわさ》では、二足《にそく》の草鞋《わらじ》も穿いているという話、八五郎の相手には、少し荷が過ぎます。     三  越後屋佐吉というのは、四十を越したばかりの、北国者らしい鈍重《どんじゅう》なうちに、何となく強《したた》か味のある男ですが、女房が不思議な殺されようをしたので、さすがに、すっかり度を失っております。  早速八五郎を一と間へ案内して、北枕《きたまくら》に寝かしてある、女房お市の死体を見せてくれました。覆《おお》いを取ると、斬られて死んだ者によくある、白蝋《はくろう》のような感じのする顔で、年の頃三十五六、神経質な口やかましい女ということは、八五郎にもよく受け取れます。  傷は頸の右の方から喉笛へかけて、斜め一文字に深々と口を開いて、見るも無気味な有様、これでは一たまりもなかったでしょう。 「血が出ましたか」 「出たの出ないの——庭の雪が真っ赤になりましたよ」  有名な銭形の平次が来ずに、少し好人物らしい子分の八五郎が来たのが、佐助の癪《しゃく》にさわったのでしょう、物の言いようがすこしばかり、突慳貪《つっけんどん》です。 「フーム」  ガラッ八は唸《うな》りました。 「八兄哥、血のことを気にするようじゃ、鎌鼬《かまいたち》という見当だね。鎌鼬は傷の深い割に血の出ないものだっていうが、江戸は上様《うえさま》のお膝元で、鎌鼬は昔から出ねえことになっているぜ」  と首を出した万七、冷笑気味な口吻《こうふん》ですが、馴れた目だけに、どこか鋭いところがあります。 「……」  ガラッ八は黙って点頭《うなず》きました。鎌鼬でないことは、親分の平次にも言われましたが、傷口の反《そ》り具合があまりに見事だったので、ツイ自分の最初の心に立ち返ったのでした。 「それによ、八兄哥、左利きの鎌鼬ってものはあるめえ」  万七は言い得て妙といった顔で、死体の右の頸筋——人間の手で上から切り下げた、斜めの傷口を指すのでした。 「曲者は下駄を履いていたそうですね」  とガラッ八。 「踏み荒してしまったが、まだ庭に雪がありますから、見当くらいは付きます。こうお出でなさい」  佐吉に案内されて、次の間へ行くと、縁側に近く長火鉢を置いて、すべての調度は昨夜のまま、障子を開けて一と目庭を見ると、なるほど散々に踏み荒しましたが、消え残る雪の上には、血とも煤《すす》とも付かぬ程度に、薄赤い斑点《はんてん》が見られないことはありません。 「下駄の跡は一人でしたか」 「庭の中にはかなり足跡もありましたが、皆んな同じ歯の跡で、木戸から入って出たのは一人分だけでしたよ」  ガラッ八も途方にくれました。十坪ばかりの狭い庭には、亭主の殺風景な性格を反映して、石一つ、植木一本ない有様、わずかに戸袋の側の手水鉢《ちょうずばち》の下に、南天《なんてん》が一株《ひとかぶ》ありますが、それといっても、人間が潜りもどうも出来るほどのものではなく、狭い場所一パイに建てた家で、たった一つの庭木戸のほかには、往来へ出る道も、表へ廻る路地もありません。 「木戸の向うは川岸《かし》っ縁《ぷち》の往来ですね」 「そうですよ、あの雪で昨夜は人通りも少なかったようですが、それでも宵のうちですから、チラホラ、通らないことはありません」  と佐吉。 「この辺に、お前さんを怨《うら》んでいる者はありませんか」 「ありますよ、どうせ良く言われっこのない性分で、町内の人が皆んな敵《かたき》みたいなものでさア——」  少し言い草は乱暴ですが、八五郎の半間な調子に業《ごう》を煮やした故《せい》もあったでしょう。佐吉は忌々《いまいま》しそうに舌打ちをしました。     四 「雇人《やといにん》は?」 「二人いますよ。一人は越後者で、お駒という下女、一人は房州者《ぼうしゅうもの》で、これは借金の取り立てや使い走りをさせておりますが、与次郎という男。もっとも、この与次郎の方は、町内の銭湯へ行っていて、女房が殺された時は家にいませんでしたよ」  佐吉のそういうのを聞きながら、八五郎は障子を締めると、今度は家の中の間取りを見て廻りました。入口の格子の右が女中部屋で、その先がお勝手、お勝手はすぐ横町の路地へ、木戸一つで通ずるようになっておりますが、御用聞きの出入りがあるので、この辺の雪も踏み荒されております。  入口を隔《へだ》てて、左が死体を置いてある部屋、その奥が夫婦の居間で、これは昨夜事件のあったところ。妙な間取で、座敷か納戸《なんど》を通らなければ、居間から直接お勝手へは出られません。  下女のお駒は、流し元で遅い朝飯のお仕舞をしておりました。二十三四の色白の女で、様子もそんなに悪くありませんが、半面の大焼痕《おおやけど》で、顔を見るとがっかりします。  姉妹二人、角兵衛獅子に売られたのを、佐吉が引き取ってしばらく稼《かせ》がせていましたが、角兵衛を廃業してからは、下女にして使って、少しは給金でも溜めさせて、故郷の越後へ帰すつもり——、と佐吉は問わず語りに説明してくれました。  もっとも、このお駒というのは、妹の方で、姉はお才《さい》といって、大変に良い縹緻《きりょう》だったが、一年ばかり前に死んでしまった——とこれも佐吉の話。自分の事を噂されながらも、お駒は鈍感な女によくある無関心さで、機械的にお勝手の仕事を続けております。 「お駒さん、昨夜《ゆうべ》は驚いたろう」  ガラッ八が水を向けると、 「驚いたよ、お神さんがおっ死《ち》んだんだもの」  何を当たり前なことを——と言わぬばかりの面がまえは、すっかり我が名御用聞きの八五郎を憂鬱《ゆううつ》にしてしまいます。 「お神さんの殺された場所で、何か見るか聞くかしなかったかい」 「旦那が大きな声で、灯《あか》りを持って来いって言うから、棚《たな》の上の手燭へ灯を移して、大急ぎで飛んで行っただよ、何も聞くもんか」  これでは取り付く島もありません。  角兵衛獅子をやって歩いていたというのは、たぶん十年も前のことでしょう。見たところ、楽な奉公によく肥って、そんな芸当をやった身体とも見えないのです。  ガラッ八は仕様事なしにお勝手口の外を眺めました。取込みでろくに雪も掻《か》かなかったのでしょう、下男の与次郎が、浅葱《あさぎ》の手拭を頬冠《ほおかむ》りに、竹箒《たけぼうき》でセッセと雪を払っております。師走《しわす》の薄い日に、昨夜の雪がまだ解けそうにもないのですから、仕事をしていると、寒さが骨身にこたえるのでしょう、時々立ち止っては、ハアーと拳骨《げんこつ》に息を吹き掛けております。 「八|兄哥《あにい》」  後ろから、肩を叩いたのは、三輪《みのわ》の万七。 「何ですえ、親分」 「気が付かないか」 「ヘエ——?」 「それならいい、後で縄張りがどうの、石原がこうのって文句は言わないだろうな?」  妙に絡《から》んだ物の言い廻しです。 「下手人の目星でも付きましたか」 「そうだよ。八兄哥、後学のために話そう、あれを見るがいい」  万七の指したのは、お勝手の外を掃いている、与次郎の箒を持つ手です。 「……」 「あの箒を持つ手が、恐ろしく不自由なのに気が付かないかい」 「そう言えばそうかも知れませんネ」 「そうかも——じゃないよ、あの与次郎という男は確かに左利《ひだりき》きだ」 「えッ」 「先刻、下手人は左利きだ——って俺が口を滑らしたのを小耳に挟《はさ》んで、疑われたくないばかりに、不自由な思いをして右利きのような顔をして、俺達から見えるところで雪を掃いてるんだ。イヤな細工じゃないか」 「なるほど」  万七に注意されて、そっと与次郎の方へ目を走らせると、箒を持ったのは右手には相違ありませんが、なるほど不自由そうで、その作為《さくい》のあとが、一と目でわかります。 「主人に聞くと、あの野郎、たしかに左利きだという事だ。ね、八兄哥、御用聞きはこういう細かいところへ眼が届かなくちゃ物にならねえよ」  万七はそう言いながら女物の下駄を突っかけてお勝手口へ出る。 「与次郎とかいったネ、ちょいと訊きてえことがある、番所へ一緒に来てもらおうか」  釘抜《くぎぬき》のような手が、ピタリと、箒を持つ手頸に掛りました。 「あっ、何をするんだ」  立竦《たちすく》んだ与次郎、浅葱の頬冠こそしておりますが、苦味走った三十男、咄嗟《とっさ》の間に、万七の手を振りもぎって逃げようとすると、 「御用ッ」 「神妙にしろッ」  路地から二人の子分が疾風《しっぷう》のごとく飛び込んで来るのでした。     五  万七にしてやられて、ガラッ八の八五郎は、驀地《まっしぐら》に神田へ取って返しました。 「親分どうかしておくんなさい。私はこんな恥を掻かされたことがない」 「馬鹿野郎、また何かドジな真似をしたんだろう。見て来たとおり、真っ直ぐに話してみな」  銭形の平次は、八五郎を叱《しか》り飛ばして、報告の順序を立てさせました。 「何? 庭には、川岸《かし》の往来に向いた木戸よりほかに入口も出口もねえ、——銭湯へ行ったと言う、与次郎が疑われるわけだな、足跡の様子では下駄は、女物か、男物か」 「それが時が経っているのと、散々に踏み荒しているから、まるっきり解らねえ」 「仕様がねえなア、銭湯へは行って訊いたろうな、越後屋の女房が殺された時刻に、与次郎が行っていたかどうか」 「そんな事に抜《ぬか》りはねえ。朝日湯の番台の親爺に訊くと、亥刻《よつ》〔十時〕少し前にやって来て、自慢の咽《のど》で新内を唸りながら半刻《はんとき》〔一時間〕ばかりポチャポチャやっていたって言いますぜ」 「人でも殺そうという程の野郎なら、わざと半刻くらいは下手な新内でも唸っているだろう。後か先に、ほんのちょいと庭口へ廻れば、仕事は済むんだから」 「親分までそのつもりじゃ話が出来ねえ」  ガラッ八はすっかり悄気《しょげ》てしまいます。 「ところで、死骸の傷は斜横に真一文字に付いてると言ったね」 「そうですよ」 「鎌鼬《かまいたち》なら、銭形に付くか、筋か骨に沿って曲った傷が付くから、やはり人が切ったに間違いはないね、——ところで、切り口の肉は、どんな工合になっているんだ」 「それが可怪《おかし》いんだよ、親分、恐ろしく反《そ》って、何かこう鉞《まさかり》ででも割《さ》いたような工合だ」 「斧や鉞《まさかり》で、喉《のど》を割く奴はあるまい、峰《みね》の高い刃物——たぶん合せ剃刀《かみそり》かな」 「えッ」  合せ剃刀と睨んだのは慧眼《けいがん》ですが、それにしても下手人は益々わからなくなるばかりです。  平次はとうとう今戸まで出掛けてみる気になりました。三輪の万七の鼻を明かすつもりは毛頭なかったのですが。 「下手人は左利きと聞いて、自分の左利きを隠そうとしたというのはおかしいな。そんな事をしたところで、主人か下女に訊かれれば、すぐ解ることだから、脛《すね》に傷持つ者なら、かえってそんな細工はしないはずだ。これは少し面倒なことになるかも知れないよ」  平次はそう言いながら、ガラッ八を案内に、今戸へ出かけて行ったのです。  越後屋へ行く前に、近所でいろいろ噂を聞いてみましたが、佐吉夫婦の評判はまことに散々で、冗談にも褒める者は一人もありません。  欲が深くて因業《いんごう》で、若い時からずいぶん人を泣かせて来た様子ですから、どこに深怨《しんえん》の刃《やいば》を磨く者があるかもわからない情勢です。  下男の与次郎が、殺されたお市と何か関係でもあるのではないかという疑いも、一応は持ってみましたが、これも問題になりません。お市は四十近く、与次郎は三十になったばかり、女の方はヒステリックな、どちらかといえば醜女《ぶおんな》で、与次郎は、こんな仕事をしている者には勿体ないような好い男、町内の娘っ子が大騒ぎをしているばかりでなく、岡場所や|けころ《ヽヽヽ》へ握《にぎ》り拳《こぶし》で遊びに出かける程の色師《いろし》です。  金が目当て——ということも考えられますが、それなら、女房だけ殺して、姿を隠したんでは一文にもならず、二度出直す時間もあったはずなのに、それっきり逃げ出してしまったのは、たぶん、下手人の方でも、人を一人殺して、面喰ったためだろうと思われます。  平次は一応家の内外を調べた上、いよいよ自分の考えを確かめたらしく、主人の佐吉に何やら耳打ちをして、誰を縛るでもなく、懐手《ふところで》のまま神田へ帰ってしまいました。  それから三日目の朝、越後屋の佐吉は、蒼《あお》くなって、平次のところへやって来ました。 「親分、昨夜《ゆうべ》もやって来ましたよ」 「えッ」 「与次郎が縛られたから、それでいいのかと思うと、あれは三輪の親分の見当違いでしたね」 「どうなすったんだ。詳しく話してみなさるがいい」  平次も思わず膝《ひざ》を乗り出します。 「こうなんです、——女房の葬《とむら》いを済ませて、やれやれと思うと、また雪でしょう。お駒に一本つけさして長火鉢の前でチビチビやっていると、かれこれ亥刻《よつ》過ぎだったでしょう。庭の雨戸を、またトン、トン、トンと叩く者があるのです」 「……」  平次も、側で聞いているガラッ八も、思わず、ぞっとしました。 「しばらく黙っていると、女のか細い声で、——ちょいと開けて下さい——と言ったようですが、何分あの騒ぎの後でしょう、頭から水をブッかけられたようになって、恥かしい話ですが動くことも出来ません。そのまま凝《じ》っとしていると、それっきりあきらめて帰った様子です」 「……」 「翌る朝、夜の明けるのを待ち兼ねて、庭を開けてみると、下駄の跡が一パイ」  佐吉はゴクリと固唾《かたず》を呑みます。 「それは面白くなって来た——越後屋さん、帰ったら、近所中へこう言いふらして下さい——昨夜《ゆうべ》も変な野郎が来て今度は俺を誘《おび》き出そうとしたが、雪のせいで腹が痛くて顔を出せなかった。今度来たら、キッと女房の下手人の顔を見定めてやるから——と」 「少しも面白くはありませんが、やってみましょう。だが、私はもう一度来ても、顔を出すのは御免を蒙《こうむ》りますよ」  強《したた》か者らしい佐吉も、この『見えざる敵』にはすっかり脅《おびや》かされた様子です。 「大丈夫、相手は雪の晩でなきゃア来ないと解ったようなものだから、この次の雪の降る晩に、私か八五郎が、そっと戌刻《いつつ》〔八時〕前から行って入れてもらいましょう。それなら心配はないでしょう」 「ヘエ——、まア、そうまでして下されば」  佐吉は呑み込みかねた様子で帰って行きました。     六  よく雪の降った年ですが、それから七日ばかりは晴れ続き、押し詰って、二十四日、夕景から催《もよお》した雪が、宵には綿を千切って叩き付けるような大降りになりました。  越後屋から迎えを待つまでもなく、ガラッ八は今戸へ駈け付け、庭口からそっと例の部屋へ入り込みました。  飲み物も食い物もフンダンに用意させましたが、人が来ることは誰にも話させず、下女のお駒も、宵のうちから床へ入れて楽寝をさせ、佐吉一人、淋しく待っているところへ、八五郎が行ったのですから、佐吉の喜びというものはありません。  半分は手真似《てまね》で物を言って、長火鉢を間にした差し向い、妙に黙りこくって飲んでいると、やがて、亥刻《よつ》過ぎ。  雨戸は一種のリズムを持って、トン、トン、トンと鳴ります。八五郎は懐ろの十手を抜いて、そっと立ち上がると、 「待って下さい。私の顔を先に見せなきゃア、逃げるかも知れません」  佐吉もすっかり胆《きも》が坐った様子で、八五郎を押えると、雨戸へ手を掛けてサッと押し開けました。  闇から湧き上がったように、サッと吹き込む一団の吹雪、それに包まれると見るや、 「あッ」  佐吉は額を押えて縁側へ倒れました。 「曲者ッ」  続いて八五郎、一気に闇の庭へ、跣足《はだし》で飛び降りましたが、四方は塗り潰《つぶ》したような大吹雪《おおふぶき》で、黒い犬っころ一匹見付かりません。  引き返してみると、額から頬へ見事に斬り割かれた佐吉、ようやく起き直って、血だらけな半面を両手で押えているのでした。  それからの騒ぎは書くまでもありません。幸い傷は浅かったので、用意の焼酎《しょうちゅう》で洗って、晒《さらし》でグルグル巻くと、寝呆けたお駒を叩き起して、町内の外科を呼ばせました。  少し落着いたところで、いろいろ訊いてみましたが、唯、雨戸を開けると同時に、一団の白い吹雪を顔へ叩き付けられたように覚えると、額から頬へ、焼鏝《やきごて》を当てられたように感じて引くり返ったというだけの事、誰が斬って、どうして逃げたかまるっきり見当も付かない始末です。  翌る朝、神田から銭形の平次が駈け付け、三輪の万七もやって来ましたが、庭の足跡は、踏み荒されない代わり、今度は雪に埋まってしまって、八五郎が入ったのも定かでない有様、曲者はどこから来て、どこへ逃げたか、嗅ぎ出す手掛りというものは一つもありません。  散々責めたが、何としても白状をしない与次郎は、これを機会《しお》に許されて帰りました。お市を殺したのも、佐吉を襲ったのも、手口は全く同じことですから、三輪の万七も、この上与次郎を責める口実もありません。  それに、銭形の平次は、 「三輪の、そう言っちゃ済まないが、下手人は左利きじゃないよ」  と言い出したものです。 「えッ、どうしてそんな事が解るんだ」  万七の唇は少し尖《とが》りますが、平次は事もなげに、 「刀か脇差しだと、これは左利きのわざだが、傷の工合じゃ、どうしても得物《えもの》は合せ剃刀《かみそり》だ。ネ、そんな短い物で人の命でも奪ろうとすると、逆手《さかて》に持たなきゃア役に立たないよ。右の喉笛や、右の頬を、斜めに斬り下げたのはそのためだ。突き傷のように、恐ろしい力で下へ斬り下げているだろう」 「なある——」  三輪の万七、一言もありません。  しかし、右利きとわかったところで、下手人の当りが付いたわけではありません。右利きは左利きの十倍もあるのですから、わずかに、与次郎が下手人でないことが、消極的に解っただけの事です。     七  その時、妙な者が訪ねて来ました。 「銭形の親分さんが来ていなさるそうですが、ちょいとお目にかかって申し上げたいことがあります」  お駒に取り次がせたのは、この辺に網を張って、吉原へ通う客を拾う辻駕籠《つじかご》の若い者、——といったところで、四十過ぎの世帯疲《しょたいづか》れの目立つ、不景気な駕籠屋が二人でした。 「私に用事と言うのは、お前さん達かい。取り込み中で、お通しは出来ないが、ここで聴かしてもらいましょう。どんな事なんだい」  銭形の平次は、上框《あがりがまち》へ煙草盆をブラ下げて来て、お駒に座布団などを持って来させました。 「昨夜、実は妙なことがあったんです、——言おうか言うまいか、相棒とも相談したんですが、ここのお神さんが殺されたり、旦那が怪我をなすった——ことを聞くと、黙ってもいられません」 「そうともそうとも、気が付いたことがあったら、何でも話した方がいい。決して掛り合いなどにはならないようにしてやるから」 「有難う御座います、実はこうなんで、親分さん——」  年取った駕籠屋の話というのは、実に奇怪を極めました。  ——昨夜、亥刻《よつ》少し過ぎ、この二町ばかり先の稲荷《いなり》の祠《ほこら》の前で、降る雪を凌《しの》ぎながら、少し小止みになったら、馬道の方へでも出て、吉原通いの客を拾おうと相談をしていると、どこから出て来たか、チョコチョコと現われた一人の娘が、白い手拭《てぬぐい》を吹き流しに冠って、観音様まで大急ぎでやってくれと言ったのだそうです。  どうせ帰り道、相手は新造ですから、賃銀《ちんぎん》なんかいいかげんに定めて、駕籠の垂《たれ》をあげると、娘は小風呂敷包を持ったまま、馴れた調子でポンと乗りましたが、わざわざ寒い川岸を通らせて此家《ここ》の裏口のあたりまで来ると、急に用事を思い出したから、ここで降ろしてくれと言うのです。  争うほどの事でもないので、そのまま駕籠を停めたのは、ちょうど此家《ここ》の裏口、垂《たれ》を上げると、なかから出たのは、先刻の松阪《まつざか》木綿らしい粗末な綿入れを着た娘とは似も付かぬ、縮緬《ちりめん》の白無垢《しろむく》を着て、帯まで白いのを締めた、鷺娘《さぎむすめ》のような、凄まじくも美しい新造だったと言うのです。  狭い駕籠の中で、どうしてそんな早変りが出来たか、渡世の駕籠屋も想像が付きません。とにかく、急に臆病風に誘われて、定めた駕籠賃ももらわずに、山の宿の方へ一散に逃げ出してしまったという話——。 「親分さん、お狐様かお雪娘か知りませんが、どうも|ろく《ヽヽ》なもんじゃ御座いませんよ。御用心なさいまし。ヘエヘエ——こんなにお駄賃《だちん》を頂いてはすみません」  二人の駕籠屋は、余分の駄賃をもらった上、所、名前を言って帰ってしまいました。 「ね、銭形の、こいつは鎌鼬《かまいたち》じゃなくて、お稲荷様かも知れないぜ、主人は鳥居へ小便でも掛けたことがあるんじゃないか」  万七は妙にニヤリニヤリしておりますが、平次はそれを聞くと、追っ立てるように外へ飛び出しました。  裏口は往来を距てて大川。  もう少し先へ行くと都鳥《みやこどり》と、瓦屋《かわらや》が名物ですが、この辺はまだ町の中で、岸にはいろいろのゴミが、雪と一緒に川面《かわも》を埋めております。 「八、物干竿《ものほしざお》を一本かりて鳶口《とびぐち》を結《ゆわ》えて来い」 「ヘエ——」  持って来た二間竿。  先に鳶口《とびぐち》を付けて、川面の雪と雑物とを掻き廻して行くと、間もなく妙なものが引っ掛りました。 「おやッ」  引き上げてみると、少し碧血《あおち》に染んだ白無垢。紐で縛ってありますが、ほどくと、まぎれもない上質の白縮緬で、白羽二重帯まで添えてあるのです。 「おやッ、これはお葬いで着るのとは違うぜ」  と万七。 「吉原《なか》で、花魁《おいらん》が八朔《はっさく》に着る白無垢だよ。三輪の、お狐様じゃないようだね」  平次はそう言って、考え深く水漬《みずづか》りの白無垢をひろげました。     八  白無垢は出ましたが、下手人はそれっきりわかりません。娘を乗せて来たという駕籠屋まで引っ張り出して、来た道を逆に、稲荷の社《やしろ》まで探して行きましたが、その辺には、佐吉の烏金《からすがね》を借りて、ひどい目に逢わされている家は、門並の有様ですから、どこの娘をしょっ引いていいのか、縛ることの好きな万七も、手の下しようがなかったのです。  佐吉のために身を売った娘もあろうし、女衒《ぜげん》の真似をしているとき、散々人も泣かせたはずですから、怨《うら》みを買った覚えは算え切れないほどあるでしょうが、しかし、八朔《はっさく》の白無垢を着て、雪の夜に吉原から忍んで殺しに来るほどの大胆な花魁があろうとは想像も出来ないことです。  佐吉の傷は間もなく平癒《へいゆ》し、お駒と与次郎は、相変らず忠実に勤めておりますが、それからは、別に変ったこともありません。もっとも、佐吉が強欲で、二人の給金を何年越し払わないそうで、イヤな思いをしても、急に飛び出すわけには行かない事情もあったようです。  その次に雪の降ったのは、明けて翌年の正月十三日。この時は朝から粉雪が降り続いて、夕刻には、三寸ばかり積り、それからカラリと晴れて、大変な美しい月夜になりました。 「今晩きっと下手人を探してお目に掛けますから、掛り合いになった人を、皆んな集めて置いて下さい」  平次からの使いで、八五郎が越後屋へそう言いに言ったのは夕暮れ。それから支度に取りかかって、三輪《みのわ》の万七とその子分、銭形の平次とガラッ八、それに与次郎とお駒、主人の佐吉、これだけ集めて置いて、いつぞやの駕籠屋二人に、酒手《さかて》をやって稲荷様の前に網を張らせ、浅草へ行く娘でなければ、乗せてはならぬと言い付けて置きました。  相変らず酒が出ます。お勝手も入口も締めず、用心が悪いようですが、名題の御用聞きが二人いるのですから、空巣狙いの心配もなく、今晩は例の居間の長火鉢の前へ、一人残らず集まってしまいました。  亥刻《よつ》少し過ぎ、何となく夜の寒さが、背に沁《し》み渡る頃、みんなが期待したとおり、——  トン、トン、トン、  雨戸は鳴ります。一同はぞっと顔を見合せました。続いて、 「ちょいと、ここを——」  と、か細い女の声。佐吉も子分達もガラッ八も与次郎も顔色を失いましたが、一向平気なのは銭形の平次だけ。中でもお駒は袖に顔を埋めて、畳の上に突っ伏してしまいました。 「サア、お駒さん。お前でなきゃアならない事がある。行ってあの雨戸を開けるんだ」  と平次。ガタガタ顫《ふる》えているお駒を抱き起すように、縁側へ伴《つ》れ出しました。  続いて、万七、佐吉、ガラッ八、与次郎。 「お駒さん、しっかりするんだ。あれは、お前の姉さんのお才《さい》だよ、玉屋小三郎の抱え、一時は全盛を謳《うた》われた玉紫花魁《たまむらさきおいらん》だ。怖《こわ》がることはない」 「あれッ——」  お駒は振りもぎって逃げようとしましたが、平次は後ろから羽掻《はがい》締めにして、離そうともしません。  続いてまた、トン、トン、トン、と叩く音、陰《いん》に籠ったその物凄さというものは——。 「お駒さん、あれ、あれ、お前の姉さんが呼んでいるじゃないか。越後屋佐吉——ここの主人に、角兵衛獅子で何年となく虐《いじ》め抜かれた上、年頃になって、光り輝やくように美しくなると、自分の娘分にして、玉屋へ年いっぱいに売り飛ばされ、その上、佐吉夫婦が、絞《しぼ》って、絞って、絞り抜いて、悪い病気に罹《かか》って、身動きの出来なくなるまで絞り取られた姉のお才だ」 「……」  平次の言葉は、物凄い空気の中に、地獄の判官の宣告のように響きました。 「お前の姉が、佐吉夫婦を怨《うら》んで、糸のように痩せ細った身体で、頸《くび》を縊《くく》って死んだのは、ちょうど一年前、佐吉夫婦を怨《うら》んで、よく似合うと言われた八朔《はっさく》の白無垢《しろむく》を着て、雪の夜を選んで仕返しに来るのも無理はない。——これだけ話せばあの外から雨戸を叩くのは、誰だかよく解るだろう。さア、お駒、怖がることはない。思い切って開けてみるがいい。そら、また叩いているじゃないか——」  何という恐ろしい緊張でしょう。主人の佐吉は積悪《せきあく》に責めさいなまれるように、縁側へ崩折れてガタガタ顫《ふる》え、ガラッ八も、与次郎も、万七でさえも、顔色を失って、成行《なりゆき》を見詰めるばかりです。 「お駒、お前が開けなければ、俺が開けてやる。それ」  平次の手は雨戸にかかると、アッと言う間もなく一枚引き開けましたが、外は、雪の上に照る十三夜の皎月《こうげつ》。狭い庭はたった一と眼に見渡されますが、物の翳《かげ》もありません。 「玉紫の花魁。よく聴くがいい、お前の妹のお駒は、一生困らぬだけの金を持たせて、明日にも故郷の越後へ帰してやる。もうここへ出ちゃならねえぞ。解ったか——南無阿弥陀仏」  平次が月の庭へ手を合せて拝むと、お駒も、佐吉も、ガラッ八も、釣られたように、念仏を称《とな》えて、白々とした庭を眺めやるのでした。  明くる日、お駒は溜《たま》った給料を受け取った上、外に手当て百両をもらい、平次とガラッ八に送られて、故郷の越後へ発ちました。確かな道伴《みちづれ》を見付けて、板橋から別れる時、 「親分、この御恩は忘れません」  お駒は何べんも何べんも繰り返して、江戸へ引き返す平次の後ろ姿を拝んでおります。半面|大焼痕《おおやけど》の醜《みにく》い女ですから、道中も先ず無事でしょう。平次は重い荷をおろしたような心持で、ガラッ八と一緒に帰って来ました。 「ね、親分。あの下手人は玉紫とかいう花魁の幽霊なんですかい」  とガラッ八、少し獅子《しし》ッ鼻《ぱな》がキナ臭くうごきます。 「馬鹿、幽霊が人を殺してたまるもんか」 「すると」 「お前だから話すが、人に言うな、あれは皆んな、お駒の細工さ」 「ヘエ——」 「お勝手からそっと出て、遠廻りをして庭木戸を入って、姉の仇《あだ》を討つつもりだったんだよ。帰る時は身体が軽いから、羽目を越して下肥汲《しもごえくみ》の通る細い路地から、アッと言う間に自分の部屋へもぐり込んだのさ——」 「白無垢で、雪の晩だけねらったわけは?」 「白無垢は姉の形見さ。あんなものが、玉屋から届いたガラクタの中にあった事を、佐吉も気が付かなかったんだ。稲荷様へ行って、駕籠へ乗って中で着換《きか》えたのは、わざわざ遠方から来た、怪物《えてもの》に見せようという細工さ。あの女はあれでなかなか馬鹿じゃないんだよ」  平次の話は明快ですが、たった一つ、まだガラッ八にも解らないことがあります。 「昨夜《ゆうべ》のはすると誰です。お駒も中にいたはずだから——」 「馬鹿だなア、お品さんは、そんな事にかけちゃ、申し分のない役者だよ。稲荷様から辻駕籠に乗って、お駒がやったとおりに運んだまでの話さ——そうでもしなきゃア、佐吉は百両という大金を出す気にならないだろうし、何時かはお駒が下手人ということが解って、三輪の万七兄哥などに縛られるよ」  昨夜《ゆうべ》の白無垢は、石原の利助の娘のお品とは、佐吉も万七も、当のお駒も気がつかなかったでしょう。 「ヘエ、そんな事をしてもいいんでしょうか」 「何をつまらない。御法度《ごはっと》の敵討《かたきうち》さえ、筋が立てば、大ビラにやらせる世の中じゃないか。姉妹二人十何年も死の苦しみを嘗《な》めさせられて、そのうえ姉が首を吊《つ》ったんだ。その仇《あだ》を討った妹を縛れって言うなら俺は十手をお上へ返すよ」  平次は感慨深くそう言いました。滅多に人を縛らぬ、一名|縮尻《しくじり》平次は、こうして『雪の精』を見逃してしまったのです。  くるい咲き     一  相変らず捕物の名人の銭形平次が、大縮尻《おおしくじり》をやって笹野新三郎に褒められた話。  その発端《ほったん》は世にも恐ろしい『畳屋殺し』でした。 「た、大変ッ」  麹町四丁目、畳屋弥助のところにいる職人の勝蔵が、裏口から調子っぱずれな声を出します。 「何だ、また調練場《ちょうれんば》から小蛇でも這出《はいだ》して来たのかい」  と、そのころは贅《ぜい》のひとつにされた、猿屋の房楊枝《ふさようじ》を横くわえにして、弥助の息子の駒次郎が、縁側へ顔を出しました。 「それどころじゃねえ」 「町内中の騒ぎになるから、少し静かにしてくれ。麹町へ巨蟒《うわばみ》なんか出っこはねえ」 「今度のは巨蟒じゃねえ、丈吉の野郎が井戸で死んでいるんだ」 「なんだと」  駒次郎は、跣足《はだし》で飛び降りました。そこから木戸を押すと直ぐ釣瓶《つるべ》井戸で、その二間ばかり向うは、隣の屋敷と隔てた長い黒板塀になっております。  丈吉の死体は、井戸端にくみ上げた釣瓶に手を掛けて、そのまま崩折れたなりに冷たくなっていたのでした。  抱き起してみると、右の眼へ深々と突っ立ったのは、商売物の磨き抜いた畳針。 「あッ」  駒次郎も驚いて手を離しました。 「ね、兄哥、丈吉の野郎が、何だって畳針を眼に突っ立てたんでしょう」 「そんな事は解るものか。親父へそう言ってくれ」 「親分はまだ寝ていますぜ」 「そんな事に遠慮をする奴があるものか」  勝蔵が主人の弥助を起して来ると、井戸端の騒ぎは際限もなく大きくなって行きます。  変死の届け出があると、町役人が立会いの上、四ツ谷の御用聞きで朱房《しゅぶさ》の源吉という顔の良いのが、一応見に来ましたが、裏木戸やお勝手口の締りは厳重な上、塀の上を越した跡もないので、外から曲者が入った様子は絶対にないという見込みでした。  それに、丈吉はなかなかの道楽者で諸方に不義理の借金もあり、年中馬鹿馬鹿しい女出入りで悩まされていたので、十人が十人、自害を疑う者はありません。 「持ち合せた畳針で眼を突いて、井戸へ飛び込むつもりだったんだね。ところがここまで来ると力が脱けて井戸へ飛び込む勢いもなくなった——」  朱房《しゅぶさ》の源吉は独り言を言いながら、もっともらしくその辺を見廻したりしました。 「親分の前だが、こいつは自害じゃありませんぜ」  不意に横合いから、変な口を利く奴があります。 「なんだと?」  振り返るとそこに立っているのは、銭形の平次の子分で、お馴染《なじみ》のガラッ八、長い顔を一倍長くして、源吉の後ろから、肩へ首を載っけるように覗いているのでした。 「ね、朱房の親分、井戸へ飛び込んで死ぬ気なら、何も痛い思いをして、眼なんか突かなくっていいでしょう」 「何?」 「それに、商売柄、縄にも庖丁《ほうちょう》にも不自由があるわけはねえ」  八五郎は少し調子に乗りました。さすがに死体には手は着けませんが、遠方から唇《くちびる》を尖らせ、平次仕込みの頭の良いところをチョッピリ聴かせます。 「手前は何だ」 「ヘエ——」 「どこから潜《もぐ》って来やあがった」  源吉の調子は圧倒的でした。 「神田の平次親分のところにいる八五郎で、ヘエ——」 「ガラッ八は名乗らなくたって解っているよ、その長い顎が物を言わア、看板に偽《いつわ》りのねえ面だ」 「ヘエ——」 「俺が訊くのは、どこから何の用事で来たか——てんだよ。ここへそんな顎を突っ込むのは縄張り違げえだろう」 「朱房の親分、決してそんな訳じゃありません。平川天神様へ朝詣りをして、三丁目へ通りかかると町内中の噂《うわさ》だ。知らん振りもなるまいと思うから、ちょいと顔を出したまでで」 「面だけで沢山だ。口なんか出してもらいたくねえ」 「相済みませんが、親分、どう見たってこれは自害じゃありません。自分の手で、眼玉へ畳針を三寸も打ち込めるもんじゃありませんぜ」  ガラッ八も容易に引き下りません。 「目玉へ畳針を当てて、井戸端へ頭を叩きつけたらどうだ」 「それなら井戸端へ血がつくじゃありませんか」 「血なんか幾らも出ちゃいないよ」 「もう一度調べ直して下さい。外から曲者が入ったんでなきゃア、家の中の者でしょう。その男は金廻りも悪いが、女癖《おんなぐせ》が悪かったって言いますから」 「さア、もう帰ってもらおうか、ガラッ八親分なんざ、物を言うだけ恥を掻くぜ、——昨夜はあの良い月だ。井戸端で立廻りをやるのを、家の者が知らずにいるはずもなし、第一、人間の眼は八五郎兄哥の前だが、どこかの岡っ引よりは、余っ程|敏捷《すばしこ》いぜ。畳針を突っ立てられるまで、開けっ放しになっちゃいねえ、瞬《またた》きをするとか、顔を反《そむ》けるとか、何とかするよ」 「……」 「畳針は真っ直ぐに突っ立っているし、頬にも瞼にも傷はねえ」  源吉はしたり顔でした。死体になった丈吉は、衣紋《えもん》の崩れもなく、瞳《ひとみ》へ真っ直ぐに立った畳針を見ると、争いがあったとは思いも寄らなかったのです。 「……」  ガラッ八は|ごくり《ヽヽヽ》と固唾《かたず》を呑みました。丈吉が気でも違っていない限り、丈夫な縄も、鋭利な庖丁《ほうちょう》も捨てて、一番無気味な、一番不確実な、畳針で死ぬ気になった心持が呑み込めなかったのです。 「神田の八五郎兄哥は、この家の中に下手人がいる見込みだとよ、皆んな顔を並べて、人相でも見せてやんな、——自棄《やけ》に良い男が揃っているじゃないか。女出入りなら駒次郎兄哥などが早速やられる口だぜ。金が欲しきゃア、弥助親方だ、——何だってまた選りに選って、醜男《ぶおとこ》で空っ尻で、取柄も意気地もねえ丈吉などの眼玉を狙ったんだ」  朱房の源吉は、井戸端に集まった多勢の顔を見渡しながら、いい心持そうにこんな事を言いました。  主人の弥助は五十を越した年配、その倅《せがれ》、駒次郎は取って二十三、これは山ノ手の娘に大騒ぎされている男前、職人の勝蔵も、二十五六の苦み走った男、源吉が言うのは、満更|出鱈目《でたらめ》ではなかったのです。 「やい、八兄哥、帰ったら平次にそう言いな、近ごろ少し評判がいいようだが、あんまり出しゃ張ると|ろく《ヽヽ》な事になるめえ——とな」  ションボリ帰って行くガラッ八の後ろ姿へ、源吉は思う存分の悪罵《あくば》を浴びせました。平次には余っ程怨みがある様子です。     二 「親分、こういうわけだ、|あっし《ヽヽヽ》は何と言われたって構わねえが、親分の事まであんなに言われちゃ我慢がならねえ。お願いだから四丁目まで行ってやっておくんなさい。源吉の鼻をあかさなきゃア、この稼業《かぎょう》は今日限り止《よ》しだ。足を洗って紙屑拾いでも何でもやりますよ」  ガラッ八の折入った様子は、世にも不思議な痛々しさでした。浴衣《ゆかた》の尻を端折《はしょ》って、朝顔の鉢の世話を焼いていた平次も、思わず真剣な顔を挙げます。 「大層腹を立てたんだな八、手前にも似わない」 「腹も立てますよ、親分」 「まアいい、俺にまで喰ってかかられちゃ叶《かな》わない、ちょっと行ってみるだけでも、見てやろうか」  と平次。 「親分、本当に行って下さるか」 「八の顔だって汚しっ放しにはなるめえ、それに、話の様子じゃ、俺が考えても自害じゃねえ」 「有難てえ、それでこそ銭形の親分だ」 「馬鹿野郎、おだてに乗って出かけるわけじゃねえぞ」 「ヘッ、ヘッ」  ガラッ八は自分の額をピシャピシャ叩いておりました。この心服しきっている親分から『馬鹿野郎』と叱られる度に、嬉しくて嬉しくてたまらない様子です。  四丁目の畳屋へ行ったのは、巳刻《よつ》〔十時〕少し過ぎ、朱房の源吉は引き揚げましたが、幸い丈吉の死体は、筵《むしろ》を掛けたまま、まだそのままにしてありました。 「フーム」  筵を除《と》って一目、平次は呻りました。忙しく四方《あたり》の様子を見廻して、もう一度ガラッ八の顔に還った瞳には、『——よく疑った』というような色がチラリと見えるのでした。 「ね、親分、誰かに殺《ばら》されたに違いないでしょう」  少しばかりガラッ八の鼻は蠢《うご》めきます。 「そんな事が解るものか——これだけ力任せに畳針を刺すうち、凝っとしているのは可笑《おか》しいな」 「眠っているところをやられたら?」  ガラッ八、今度は少し不安になりました。 「井戸端で眼を開いて寝ている奴はない」 「酔払《よっぱら》っていたらどうです」  とガラッ八。 「丈吉は生れつきの下戸で、樽柿《たるがき》を食っても赤くなる野郎でしたよ」  主人の弥助が後ろから口を出しました。折角朱房の源吉が自害として運んでいるのを、変な場違い野郎が飛び出して、『殺し』にしようという態度が、癪《しゃく》にさわってたまらなかったのです。 「親分、向うの二階から手裏剣《しゅりけん》を飛ばしたらどんなものでしょう」  ガラッ八はそっと囁きます。畳屋の裏は黒板塀を隔てて、|しもたや《ヽヽヽヽ》が二軒、一軒は平家の女世帯、一軒は裕福な浪人者の住居、こちらの方には、小さい二階があったのです。 「少し遠いな、——それに、畳針は手裏剣には少し軽いからあの二階から打ったんでは、頬に傷をつけるくらいが精々だ。眼玉を狙って三寸も打ち込むわけには行くまい」 「……」  ガラッ八は黙ってしまいました。折角神田から引っ張り出して来た親分の平次も、これでは源吉とたいして変りはありません。弥助も、その倅の駒次郎も、職人の勝蔵も口には出しませんが——好い気味だ——といった顔で、ガラッ八の照れ臭い様子を眺めております。 「お隣はどんな人が住んでいなさるんで?」  平次は改めて弥助に訊きました。 「右の方は下町の物持のお嬢さんが一人、何でも妾腹《しょうふく》で御本宅がやかましいとかで、下女が二人ついて暢気《のんき》に暮していますよ、お名前はお町さん——」 「左の方は」 「御浪人ですが、これは大藩の御留守居をなすった方で、お金がうんとあります。町内の質屋に資本《もとで》を廻して、お子様と二人暮し、——お子様といったところで、もう二十歳《はたち》近いお嬢さんで、これはお綺麗な方です」  弥助は揉手《もみで》をしながら、自分のことのようにニコニコしております。余程浪人と懇意《こんい》にしている様子です。 「お年は?」 「厄《やく》少し過ぎでしょうか、御名前は大里玄十郎様、立派な方で御座います」     三  平次は一応現場を調べた上、町内の質屋へ行ってみました。  大里玄十郎の暮し向きの事を訊くと畳屋の主人が言ったのは、まるっ切り大嘘《おおうそ》、質屋へ資本《もとで》を廻しているどころか、その日の物には困らないまでも、暮しが贅沢《ぜいたく》なのと、娘のお才が派手好みなので、内々、腰の物までも曲げることがあるという話—— 「近頃畳屋とすっかり昵懇《じっこん》になったようですから、いずれあの娘を、駒次郎へ押しつけるつもりでしょう。この節の武家は、そんな事をなんとも思っちゃおりませんよ。——それにあの畳屋は一丁目から御見付まで、表通りには、及ぶ者もない物持ですからね」  そっと、こんな立ち入ったことまで教えてくれました。  平次はその足で直ぐ大黒玄十郎の格子の外に立ちました。 「なに? 銭形の平次が参った、ちょうどいい塩梅《あんばい》だ、こっちにも言いたいことがある」  一刀を提《ひっさ》げて、上り框《がまち》にヌッと突っ立ったのは、青髭《あおひげ》の跡凄まじい中年の浪人です。 「恐れ入りますが、ちょっとお嬢様に御目に掛りとう御座いますが」  慇懃《いんぎん》な平次を尻目に見て、 「馬鹿奴ッ、手先御用聞きに口をきくような娘は持たぬぞ——この家の二階から手裏剣を打って丈吉を殺した——などと言った奴があるそうだが、とんでもない野郎だ。十間以上離れたところから畳針を飛ばして、人の命をとるほどの腕があれば、浪人などはしていないぞ」 「恐れ入ります」 「恐れ入ったら帰れ帰れ、畳屋の職人を殺すほど怨《うら》みも理由もある拙者ではない。この上用事があるなら、せめて町方の役人を伴れて来い、馬鹿馬鹿しい」  いやもう滅茶滅茶です。 「とんだお邪魔をいたしました、御免」  平次とガラッ八は、キリキリ舞いをして引き下がりました。何心なく振り返ると、袖垣の上から一と目に見える縁側に、二十歳《はたち》ばかりの武家風とも町家風ともつかぬ娘が立って、二人の後ろ姿を見送っているのと、顔を見合せてしまいました。  背の高い、少し骨張った娘ですが、何となく艶めかしい十人並に優れた美しさです。 「親分、済まねえ、手裏剣は間違いだったネ」  追いすがるようにガラッ八。 「最初《はな》っから俺はそんな事を考えちゃいねえよ」 「じゃやはり自分の眼へ針を刺して井戸端へ頭をぶっつけたんで」  とガラッ八。 「そんな事が出来る芸当かどうか、やってみな」 「ヘッ」  そんな事を言いながら、二人はもう一軒の隣、お町という娘の住んでいる家の格子の外に立っておりました。 「お町さんはいなさるかい。神田の平次だが、ちょいと逢って下さい」 「ヘエ——」  年頃の下女は奥ヘ飛んで行きました。隣に騒ぎのあったことは知っているはずですから、神田の平次という言葉がピンと来たのでしょう。  しばらくすると、 「あの、済みませんが、お嬢さんは寝《やす》んでおります、え、お風邪《かぜ》で御座います。どんな御用でしょう?」  先刻の下女が物に怯《おび》えたように、畳の上へ手を突いているのでした。 「風邪? それはいけないな、夏の風邪は抜け難いから、用心なさるがいい、いつから寝なすったんだ」  平次の調子は至って平坦でした。 「昨夜宵のうちからお加減が悪そうでしたが、今朝はもう起きていらっしゃいません」 「そうかい」 「あの、御用は?」 「なアに、たいした事ではないが、——隣の畳屋の職人が死んだのをお聞きなすったろう」 「ヘエ」 「あれは、人に殺されたんだと思うんだ。心当りはあるまいね」 「いえ、何にも」 「あの丈吉とかいう男は、時々ここへ来ることがあったかい」 「一度もいらっしゃいません。私などはお顔もろくに知らないくらいで——」 「駒次郎兄哥は時々来るだろうね」 「ヘエ——」  そう言って下女はハッと袖口で口を覆《おお》いましたが続けて、 「でも、でもあの、近頃はさっぱりいらっしゃいません」 「そうだろう、大里様のお才さんと近いうちに祝言するそうだから」 「……」  妙に探り合いのような、擽《くすぐ》ったい空気です。 「お嬢さんにはお目に掛るまでもないんだが、その代りあの塀のあたりを見せてもらいたいよ、丈吉殺しの曲者が、あの辺から塀を越して行ったかも知れないんでネ」 「……」  下女が返事をする前に、ガラッ八を目で麾《さしま》ねいた平次は、畳屋との境になっている黒板塀の方へ近づきました。  南を塞《ふさ》がれているので、草花の育ちそうもない塀の下は、ジメジメした苔《こけ》の上に、女下駄の跡だけが幾つかほのかに読めます。 「親分、男なんざ入った様子はありませんね。それにこの塀と来た日にゃ、まさか人間は潜られないが、バッタ、カマキリ、蝶々《ちょうちょう》、蜻蛉《とんぼ》は潜り放題だ」  全くそのとおりでした。畳屋の方こそ、黒々と塗って、たいした不体裁もありませんが、こっちの方は見る影もなく荒れて、支えの柱は所々|歪《ゆが》んだまま、曝《さらさ》れきった板は、灰色に腐蝕《ふしょく》して、所々に節穴さえ開いております。  平次とガラッ八が塀際を離れて元の格子戸の前へ来ると、青い顔をした娘が少し取り乱した姿で目礼をしておりました。 「お町さんでしょうね、とんだお邪魔をしました」 「どういたしまして」 「気分はどうです」  平次は格子の中へ入って、言葉はひどく丁寧ですが、いつもに似ぬ図々しい態度で上がり框《かまち》に腰を下ろしました。 「有難う御座います、大したことは御座いません」  なんという痛々しい感じのする娘でしょう。白粉っ気のない初々しさも充分に美しいのですが、可哀想に眉から左の耳へかけて火の燃えるような、赤痣《あかあざ》です。 「そんな事で変な気を起しちゃならねえ」  平次はつかぬ事を言って、この娘の宿命的な醜い半面を見詰めました。右半面がお才などは足許にも寄りつけぬほど美しいのに、これはまた、何という造化の悪戯《いたずら》でしょう。血と肉で出来た大傑作《だいけっさく》へ何か気に染まぬ事があって、赤い絵の具皿を叩きつけたといった顔です。 「ところで、女世帯では何かと物騒だろう。隣の畳屋を見張らせながら、ごく要心の良い男を一人置いて行くが、泊めて下さるでしょうね」 「えッ」 「八、手前《てめえ》今晩から、当分ここに泊っているんだよ、用心棒に」 「親分、あっしが?」 「そうよ、若い女の中へ転がして置くには、手前のような用心の好い男は滅多にねえ」 「チェッ、情けねえことになりやがったな」 「頼んだよ、八」  平次は|ろく《ヽヽ》に返事も聴かず、そのまま神田へ引き揚げました。 「弱ったなア、どうも驚いたなア」  後に残された八五郎の弱りようというものはありません。  若い女二人の白い眼に射竦《いすく》められて、いつまでも、もじもじしていることでしょう。     四 「親分、大変な事になったぜ」 「また大変かい、八の大変に驚いていた日にゃ、御用聞きが勤まらねえ」  平次は縁側で相変らず朝顔の世話に余念もありません。 「立派な御用聞きが朝顔道楽を始めるようじゃ——」 「なんだと、八」 「ヘッ、ヘッ、天下は泰平だって話で」 「馬鹿にしちゃいけねえ、——ところでその大変というのは何だ」 「また一人死にましたぜ」 「何? とうとうお町が死んだか」  平次は朝顔を投り出すように立ち上がりました。 「お町——と、どうして解るんで」  ガラッ八の鼻はキナ臭く蠢《うごめ》きます。 「俺はそれが危いと思ったからお前を泊めたんだ、なんだって夜っぴて見張っていねえ」 「それは無理だよ親分、そう言ってくれさえすりゃア、あの娘の首っ玉へでもかじりついていたのに、あっしは外から来る野郎ばかり見張っていたんだ」  ガラッ八は叱られながらはなはだ不服そうです。 「とにかく行ってみよう、もうこれっきりだろうと思うが、一応見て置かないと、後々のことが安心ならねえ」  二人は直ぐさま飛び出しました。  麹町《こうじまち》四丁目の、お町の家へ行ってみると、隣の畳屋の井戸から引き揚げて来たばかりのお町の死体は、乾いた物に着換えさせて、二人の下女と、それから、日本橋から駈けつけたという、お町の姉というのが、線香を焚いたり、鉦《かね》を叩いたり、泣き濡れて拝んでばかりおりました。 「畳屋の井戸へ飛び込んだのかい、なるほどこっちの方が少し深い」  平次は今更そんな事まで感心しております。 「銭形の、御苦労だね」  畳屋からノソリと出て来たのは朱房《しゅぶさ》の源吉、朝っからアルコールが胃嚢《いぶくろ》へ入ったらしく、赤い顔とすわった眼が、なんとなく挑戦的です。 「朱房の兄哥、八五郎の奴がとんだお節介をして済まなかったねえ、勘弁してくんな」  平次は微笑をさえ浮かべて、蟠《わだか》まりのない調子でこう言いました。 「なアに、自害が自害と解りさえすりゃアそれでいいのさ。人殺しの下手人が解らなかったとなると、この辺を縄張りにしている、この源吉の顔に拘《かか》わるというものだ、——なア八兄哥、今度はお町は井戸へ投げ込まれたに違げえねえなんて言わないことだぜ」 「そんな事を言やしません」  八五郎は盆の窪《くぼ》のあたりを掻いております。 「丈吉とお町は言い交わした仲さ、——丈吉が借金だらけで自害したんで、お町がその後を追うつもりで、わざわざこの井戸までやって来て身を投げた——とね、本阿弥《ほんあみ》が夫婦づれで来ても、この鑑定に間違いはあるめえ」  朱房の源吉は本当にしたり顔でした。  お町の家へ引き返して来ると、姉のお勢はすっかり心を取り直したものか、薄化粧までして平次とガラッ八を迎えました。  二十七八——どうかしたらもう少し若いでしょうが、とにかく、素晴らしい肉体を持った女で、その妖艶《ようえん》な美しさは興奮した後だけに、かえって眼の覚めるようです。若い雌鹿《めじか》のように均整のとれた四肢《てあし》、骨細のくせに、よく脂《あぶら》の乗った皮膚の光沢《つや》などは、桃色真珠を見るようで、側へ寄っただけで、一種異様な香気を発散して、誰でも酔わせずには措かないと言った、不思議な種類の女だったのです。 「お、人形町の師匠じゃないか」 「あら、銭形の親分」  取繕《とりつくろ》ったところをみると、紛れもありません。それは人形町で踊りの師匠をしている、有名すぎるほど有名な女だったのです。 「お町さんの姉というのは、師匠だったのかい」 「え、あの娘《こ》も本当に可哀想な事をしました。思い詰めた事があったら、それと私に相談してくれればいいものを」  お勢は新しく湧いて来る涙をどうすることも出来ずに、身を捻《ひね》って、袖口を顔に押し当てました。痛ましくも顫《ふる》える肩のあたり、何という艶《なま》めかしくも美しい悲しみの姿態《ポーズ》でしょう。 「気の毒だったネ、そんな事もありはしないかと思って、八五郎を側へつけて置いたんだが——」 「そうですってね、本当に親分さんの思いやりは、どんなに有難いと思ったか——でも、死ぬ気になった者は、どんな隙《すき》でも見つけます。八さんのせいにしちゃお気の毒じゃ御座いませんか」 「まアまア、あんまり泣くのも妹さんのために良いことじゃあるまい、諦《あきら》めろと言っては薄情だが」 「有難う御座います、親分さん」  平次はいい加減にして神田へ引き揚げました。事件はこれで何もかも大団円になったようですが、平次の心の中にはまだまだ済まない事ばかりです。 「八、気の毒だが、これから三日に一度くらいずつ四丁目へ行ってみてくれ」 「四丁目?」 「麹町四丁目だよ。畳屋と大里とかいう浪人の家と、それからお町の家へ当分姉のお勢が住む事になったそうだから、序《ついで》にそれも見廻るんだ」 「まだあの辺に何かあるんですかい、親分」 「これから本当の芝居が始まるだろうよ、見ているがいい」  平次は、何やら呑み込み顔にうなずきます。     五  それから十五六日、平次はほかの大きな事件に首を突っ込んで、早出の遅帰《おそがえ》りを続けたために、ガラッ八に逢う機会もありませんでした。 「親分、驚いたぜ、全く」  ガラッ八はとうとう平次を捕まえました。  平手で長い顎《あご》から頬を撫でて、恐ろしく擽《くすぐ》ったい顔をして見せるのです。 「何に驚いたんだ、——また四丁目で誰か死んだのかい」 「そこまでは行かねえ、が、あのお勢がどうかしたんだ」 「……」 「妹の家へ入り込んだはいいが、近頃は恐ろしく若造りで妹の三十五日も済まないうちから、町内の若い者を集めて、浮かれきっているんだ」 「フーム」 「日髪日化粧で、どう見たって二十二三だ。大変な化け物だぜ、あの女は」 「それがどうしたんだ、お前が口説《くど》かれでもしたと言うのか」 「ヘッ、口説きもどうもしねえが、あんまり色っぽいんで、気味が悪くて、長居は出来ねえ」 「大層気が弱いじゃないか」 「騙《だま》されると思って、親分も一度行ってみなさるがいい、請合《うけあい》二三日はボーッとするから」 「それは面白かろう、見ぬは末代《まつだい》の恥だ、直ぐ行くとしようか」 「お静さんが気を悪くしなきゃアいいが」 「何をつまらねえ」  二人はもう日が暮れたというのに、麹町四丁目までやって行きました。 「お勢さん、親分を伴れて来たぜ」  案内役のガラッ八は、顎から手を外して、格子を開けます。 「あら親分、その後はすっかり御見限りねえ、でもまアよく」  といった調子、荒い浴衣《ゆかた》の袖を翻《かえ》して、ニッコリすると、その辺じゅう桃色の媚《こび》が撒き散らされて、何もかも匂いそうです。 「これは驚いた」 「あら、何を驚いてらっしゃるの親分、ちょうど淋しがっているところよ、ゆっくりなすってもいいでしょう」  手を取っていきなり奥ヘ。  人形町にいる時は、色白の素顔を自慢したお勢、どう踏んでも三十がらみに見えた大年増でしたが、厚化粧に笹紅《ささべに》の極彩色《ごくさいしき》をして、精いっぱいの媚と、踊りで鍛えた若々しい身のこなしを見ると、二十二三より上ではありません。  どっちが本当のお勢なのか、こうなると平次も見当がつかなくなるくらい。 「驚いたね、どうも、お勢さんがそんなに若いとは思わなかったよ」  照れ隠しに煙草ばかり燻《くゆ》らしております。  それから酒。  十重二十重に投げかける怪しの網を切り破るように、平次が神田へ帰って来たのは、もう夜中過ぎでした。  それからは平次の意気込みも違い、ガラッ八の報告も急に活気づきました。  畳屋の勝蔵がせっせとお隣りへ通い始めた、という報告があってから十日ばかり経つと、今度は畳屋の息子の駒次郎が急にお勢に熱くなり出して、町内の狼連《おおかみれん》も、好い男の勝蔵も、少し顔負けがしていると言って来ました。  お勢の妖しい魅力は、間もなく麹町じゅうの若者を気違いにするのではあるまいかと思うようでした。  猛烈な逢引《あいびき》と鞘当《さやあて》のうちに、駒次郎が次第に頭をもたげ、町内の若い衆も、勝蔵も排斥して、お勢の愛を一人占めにして行く様子でした。  油のように行渡る年増の愛情は、駒次郎をすっかり夢中にさして、もう大里玄十郎の娘お才などの事を考えている余裕もなくなってしまった様子です。 「何かきっと起りますぜ」  ガラッ八がそう言って、顎を叩いたり、手を揉んだりしたのは、お町が死んで四十日目あたりのことです。     六 「いよいよ大変だ、親分」  ガラッ八が飛び込んで来たのは、もう日射しも秋らしくなって、縁側の朝顔も朝々の美しい装《よそおい》が衰えかけた時分の事でした。 「また大変か、今度は誰の番だ」 「畳屋の駒次郎が殺《や》られましたぜ」 「今度は自害じゃあるまい」 「畳庖丁で、首を右から後ろへ半分も切るなんてことは、朱房の親分が見たって自害にはならねえ」 「よしッ、行ってみよう」  平次は直ぐ飛んで行きました。  畳屋の裏木戸を入って、群がる弥次馬を掻き分けるように井戸端へ近づくと、井戸と物置の間の朝顔の垣根の中に、畳屋の息子の駒次郎が、紅《あけ》に染《そ》んで倒れているのでした。 「銭形の兄哥、御苦労だね」 「おや朱房の兄哥」 「下手人は挙がったよ」 「ヘエ——」 「職人の勝蔵さ、隣へ引越して来た踊りの師匠を張り合って、主人《あるじ》の息子を殺《ばら》したんだ」  源吉は大分好い心持そうです。 「本人は口を割ったろうか」 「知らぬ存ぜぬだ、いずれは少し痛めなきゃアなるまい」 「証拠は?」 「なんにもねえ——と言いたいところだが、あり過ぎて困っているんだ。刃物は勝蔵の使っている畳庖丁だ、——もっとも本人は井戸端へ忘れて置いたっていうが、良い職人が道具を井戸端へ忘れるはずはねえ、それに、昨夜駒次郎が外へ出たがるのを、ひどく気にしていたそうだ」  源吉のいう証拠はあまりに通り一遍のものです。 「駒次郎を怨む者は、まだほかにもあるはずだ。怨みだけで言えば、町内の若い者が半分ほどは下手人の疑いがある。それから、大きい声じゃいえないが、娘を捨てられて怒っている浪人者もいるぜ」 「大里玄十郎か」 「まアね」 「そんな事を言ったって、勝蔵が下手人でないとは決らないぜ、俺はともかく八丁堀へ行って来る。町内の若い者なり、浪人なりを縛《しば》るがよかろうよ」  朱房の源吉は、|いや《ヽヽ》味を言いながら行ってしまいました。  町内の若い者、半分は下手人の疑い——と聞いて怯《おび》えたのか、路地を埋めた弥次馬は、一人去り二人帰り、間もなく大分消えてしまいます。 「親分、本当に勝蔵じゃありませんか」  ガラッ八は少し心配そうです。 「わからないよ、だがね、八、駒次郎の傷は、喉笛《のどぶえ》の右側から始まって、たいして深くはないが、首を半分切り落すほど後ろへ長々と引いているぜ、正面から向った相手がこんな芸当が出来るかしら」 「斬って下さいと首を突き出したようだ——って親分は言うんでしょう」 「そのとおりだよ」 「背後《はいご》から切ったとしたら」 「抱きついて念入りに刃物を引かなきゃア、こうは斬れない」  平次の言うことは大分変っておりました。 「じゃ親分、どういうことになるんで」 「まだ何にも解っちゃいないが、畳庖丁のような短い物で、これだけ念入りに斬ると、下手人はうんと血を浴びたことだろうな」 「……」 「勝蔵の持ち物を皆んな見せてもらってくれ、血のついたものが一つでもあれば下手人だ」 「ヘエ——」  ガラッ八は飛んで行きましたが、間もなくつままれたような顔をして帰って来ました。 「血なんかついた物は一つもありません」 「床下《ゆかした》や天井裏や押入れには」 「待って下さい」  ガラッ八はもう一度飛んで行きましたが、どこにも怪しい物は見つかりません。 「なきゃアいい。住込みの職人が、着物を一と揃《そろい》なくして、人に気づかれないはずはない。やはり勝蔵じゃなかったんだろう、——念のために水を一と釣瓶汲《つるべく》んでみろ——井戸へ沈めた様子もないだろう」 「……」 「ところで八、俺は近頃朝顔を咲かせて楽しんでいるが、自分で育てると、草花も、我が子のように可愛いものだ」 「……」  平次が人殺しの現場で、いきなり朝顔の話を始めたので、ガラッ八も呆気《あっけ》に取られております。 「草花を可愛がる心持は、また格別だよ。自分で育てないのでも、折れたり、散らされたりすると、我慢が出来ない」 「……」 「駒次郎を殺した下手人は、朝顔の垣を除《の》けて大廻りして逃げている。こんな優しい人殺しは珍しかろう」 「……」 「荒っぽい男や、浪人者の仕業じゃねえ」 「……」 「八、俺はもう下手人探しが厭になったよ。こんな時は熱いお茶でも飲んで、休むんだね」  平次はそんな事を言いながら、塀隣のお勢の家へ引き揚げました。     七 「まア、親分」 「お勢、これはどうした」  家の中はガランとして、下女の姿も見えない上、昨日までは、あんなに厚化粧の若づくりだったお勢が、白粉も紅も洗い落して、元の素顔に、無造作な櫛巻《くしまき》、男物のような地味な単衣《ひとえ》を着ているのでした。 「引っ越しですよ、私はやはり人形町の方が水に合いそうで——」 「それもよかろう、——ところで、俺もつくづく岡っ引が厭になったよ」 「まア」 「気の毒だがお茶でももらおうか」  平次は庭から縁側へ廻って、青桐《あおぎり》の葉影の落ちるあたりへ腰を下ろすと、お勢はいそいそと立って渋茶を一杯、それに豆落雁《まめらくがん》を少しばかり添えて出しました。 「お勢、今日一日俺は岡っ引じゃねえ、お前の昔馴染《むかしなじみ》——まア、兄貴か友達と思って話してくれ」 「……」  平次の言葉は急にしんみりしました。 「俺は、口幅ったいようだが、この間からの不思議な事の経緯《いきさつ》を、何もかも知っているつもりだ。最初から話してみよう、——もし違ったところがあるならそう言ってくれ」 「……」  お勢は首をうなだれました。白粉っ気がないとやはり元の三十前後の大年増ですが、その物淋しい美しさは、極彩色のお勢よりはかえって清らかで魅力的であります。 「駒次郎は、お前の妹のお町と言い交わしていた。かなり深い仲だったに相違ない、毎晩合図をしては、あの塀を挟んで両方から話したり、笑ったり、泣いたりしていたんだ——それが、大里玄十郎父娘が引越して来ると、駒次郎の心は急にお才の方へ傾いてしまった。父親の弥助も、武家の娘を畳屋の娘にするつもりですっかり夢中になって、あの大里玄十郎が大法螺吹《おおほらふき》の山師だとは気がつかなかったんだ」 「……」 「お町は毎晩合図をしたが、駒次郎はもう塀の側へ来てはくれなかった。で、とうとう我慢がし切れなくなって、切れてやるから、たった一度だけ逢ってくれ——と言ってやった」 「……」 「その手紙を見つけたのは丈吉だ。お町に気があったから、駒次郎のふりをして塀の向う側へやって来て、駒次郎がするように、塀の穴へ眼を当てて見た。お町はそのとき駒次郎を殺して、自分も死ぬ気だったんだ、いつぞや駒次郎が自分の家へ忘れて行った畳針を持ち出して塀のこっちから、ひと思いに眼を突いた」 「……」 「丈吉は声を立てたかも知れないが、なにぶんの深傷《ふかで》で、井戸端へ行くのが精々だった。釣瓶の水で眼を冷やそうとしたが、急に力が抜けて井戸端へ突っ伏して死んでしまった。眼を洗わなかった証拠には丈吉の右の眼には少しばかり墨がついていた、たったそれだけの事で俺は何もかも見破ったような気がした」 「……」  何という明智でしょう。平次の言葉は、見て来たようにはっきりしております。 「俺は大方察したが、お町が殺したという証拠は一つもない、それに、男に捨てられたお町の心持がいじらしかった——万一自害するような事があってはならぬと思い、それとなく戒《いまし》めた上、八五郎をつけて置いたがやはりその晩、身投げをしてしまった。可哀想だが、俺には救いようがなかったのだよ」 「……」 「それから、お前が出て来た。妹の敵を討つつもりで、本心にもない厚化粧に浮身《うきみ》をやつし、町内の若い者を集めて、駒次郎の気を引いた、——浮気な駒次郎はお才を振り捨ててお前のところへ来たが、女郎蜘蛛《じょろうぐも》の網に掛った虫のように、どうすることも出来なくなったのだ」 「……」 「物置の前で逢引をした晩、井戸端に勝蔵が忘れて行った庖丁を見ると、お前は急に駒次郎を殺す気になった。抱きついて来るのを、自由にされるような振りをして、背後から庖丁の手を廻して、喉から後ろへ存分に斬った」 「……」 「朝顔の垣を踏み倒すのが可哀想になって、お前は廻り道をしてここへ逃げ帰り、血だらけになった着物を始末し、白粉も紅も洗い落して、元のお勢になった」 「……」 「どうだ、違ったところがあるか」  平次の話は微《び》に入り細を穿《うが》ちました。語りおわって顔を挙げると、お勢は三鉢四鉢大輪の朝顔を並べた縁に突っ伏して、正体もなく泣いているのでした。 「親分、一々そのとおり、寸分の違いもありません。さア、私を縛って下さい」 「いや、縛るとはまだ言わないはずだ」 「けれど、これだけは御存じなかったでしょう。お町は私の娘——天にも地にも、たった一人の生みの娘だったんです」 「え、お前の娘、——年が近過ぎるようだが」 「近いもんですか、お町は十八、私は三十四」 「三十四?」 「日本橋の大店《おおだな》の若旦那との間に、——私が十六の時生んだ娘でした。お店に置くのが面倒で、月々送って頂いてここに置きました。私の側へ置くと、筋の悪い狼達《おおかみたち》が集まって来て、ろくな事を教えないだろうと思ったのがかえって間違いの基《もと》だったんです」 「それは——」 「娘のお町が死んだ時、私も死んでしまいたいと思いましたが、身仕舞いして鏡を見ると、まだまだ私には若さも綺麗さも残っていそうに思ったので、一と芝居打ってみる気になりました。武家育ちの張子《はりこ》細工のような娘に負けようとは思いません」 「……」 「私は勝ちました。土壇場《どたんば》ですっぽかして、駒次郎に首でも縊《くく》らせようと思ったのが、あんまり執拗《しつ》こく絡《から》みつかれて、ツイ庖丁を振り上げてしまいました。私は娘を騙《だま》した男に、どんな事があっても身は任されません」  お勢はもう泣いてはいませんでした。真っ直ぐに目を起すと、観念し切った殉教者《じゅんきょうしゃ》のような清らかさが、その蒼白い顔を神々しくさえ見せるのでした。 「お勢、俺は今日一日岡っ引じゃないと言ったはずだ。——駒次郎は鎌鼬《かまいたち》にやられて死んだんだよ。放って置けば証拠がないから、誰も気がつくはずはない、勝蔵は笹野の旦那にお願いして、縄を解いてもらう手もある」 「親分」 「解ったかお勢。——人を殺したのは悪いが、俺には縛る力はない、——せめて死んだ人達の後生を弔《とむら》ってやれ。解ったか」 「ハイ」  お勢も、側で聞く八五郎も、すっかり泣き濡れて、しばらくは顔も挙げませんでした。     *  お勢はその後踊りの師匠を廃《よ》して、お町を葬った寺の花屋の株を買い取りました。美しく清らかな花屋のおかみがしばらくの間江戸の評判になった事はいうまでもありません。  買った遺書《かきおき》     一 「親分、何をしていなさるんで?」  ガラッ八の八五郎は、庭口からヌッと長《な》んがい顎《あご》を出しました。 「もう蟻《あり》が出て来たぜ八、早いものだな」  江戸開府以来と言われた名御用聞き、銭形平次ともあろう者が、早春の庭に踞《しゃが》んで、この勤勉な昆虫《こんちゅう》の活動を眺めていたのです。  生温かい陽は、平次の髷節《まげぶし》から肩を流れて、盛りを過ぎた梅と福寿草《ふくじゅそう》の鉢に淀んでおります。 「たいそう暇なんだね、親分」 「結構な御時世さ。御用聞きが昼近く起き出して、蟻《あり》や蚯蚓《めめず》と話をしているんだもの」 「ヘッ、ヘッ、その暇なところで一つ逢ってもらいたい人があるんだが——」 「お客はどこにいなさるんだ」 「あっしの家へ飛び込んだのを、つれて来ましたよ。少しばかりの知合いを辿《たど》って、入谷から飛んで来たんだそうで——」 「なんだって庭先なんかへ廻るんだ。お客様が一緒なら、大玄関へ通りゃいいのに」 「ヘッ、その大玄関は張物板で塞《ふさ》がっていますよ——木戸から庭を覗いて下さい、親分が煙草の煙で曲芸をしているはずだから——と、奥方様がおっしゃる」 「馬鹿だなア」  平次の顔は笑っております。自分が馬鹿なのか、女房のお静が馬鹿なのか、それともガラッ八が馬鹿なのか、自分でも主格がはっきりしない様子です。 「それに、お客様は跣足《はだし》だ。大玄関からは上られませんよ——さア、遠慮はいらねえ、そこから入《へえ》って来るがいい」  ガラッ八は平次へ半分、後ろの客へ半分声をかけました。 「……」  黙って木戸を押して、庭へ入って来たのを一と目、平次の顔は急に引き締ります。  取り乱してはおりますが、十八九の美しい娘が、足袋跣足《たびはだし》のままで、入谷から神田まで駆けつけたということは、容易のことではありません。それに、平次の早い眼は、娘の帯から裾《すそ》へかけて、斑々《はんはん》と血潮の付いているのを、咄嗟《とっさ》の間に見て取ったのです。 「まア、ここへ坐って、気を落着けるがいい。話はゆっくり聴こうじゃないか」 「……」 「静、水を一杯持って来てくれ」  平次は縁側へ娘を掛けさせると、女房のお静が汲んで来た水を一杯、手を持ち添えるように、娘に呑ませてやりました。  蒼白《あおじろ》い顔や、痙攣《けいれん》する唇や、洞《うつろ》な眼から、平次は事件の重大さを一ぺんに見て取ったらしく、何よりこの娘の心持を鎮めて、その口から出来るだけの事を引き出さなければと思い込んだのです。 「有難うございます」  冷たい水を一と息に呑むと、娘はようやく人心地付いたのでしょう。頬の堅さがほぐれて、自分のはしたない様子を恥じるように前褄《まえづま》を合せたりしました。 「どんな事があったのだえ——気分が落着いたら、聴かしてもらおうじゃないか」  平次の調子は、年にも柄にも似ず、老成なものでした。 「あの、大変なことになりました」 「大変?」 「父が死にました」  こう言った娘は、張り詰めた気が緩《ゆる》んだものか、いきなりシクシク泣き出しました。 「ただ死んだのではあるまい。——自殺したとか、殺されたとか」  娘の着物に目立たぬほどに付いた血を、平次は見ているのです。 「遺書《かきおき》もありますし、誰も人のいない部屋で死んでいたんですから、自殺に違いない——とお絹さんも近所の衆も言いますが、私にはどうも腑に落ちないことばかりで——」  娘は思いのほか、しっかり者らしく、次第に納まる興奮と激動の下から、知的なものが閃《ひら》めきます。 「で、お前さんは?」  平次はまだ、この娘の名も聴かずにいたのでした。 「あッ、ついあの」若い処女《おとめ》らしく初めて真赤になった娘は、「あの、研屋五兵衛《とぎやごへえ》の娘、糸と申します」——そう言って縁側に手を突きました。 「御徒士町《おかちまち》の——なるほどそうか。親御の五兵衛さんがどうしたんだ。最初から順序を立てて、詳《くわ》しく聴かしてもらおう」  平次は縁側へ腰をかけたまま、煙草盆を引き寄せました。     二  御徒士町の研屋五兵衛は、一介《いっかい》の町研屋から身を起して、後には武具刀剣万端のこしらえを扱かい、七間間口二軒建ての店を張って、下町切っての良い顔になっておりました。  その大名高家への連絡を取ったのは、根津の大町人、公儀御用達《くぎごようたし》を勤める石川良右衛門で、諸大名はいうに及ばず、公儀御腰物方の御用までも取り次ぎ、長い間ともどもに結構な利分を見ていたのでした。  その研屋五兵衛が、ゆうべ酉刻半《むつはん》〔七時〕過ぎ入谷の寮で、直刃《すぐは》の短刀で左首筋を貫き、紅《あけ》に染《そ》んで死んでいたのです。 「まだ宵のうちで、あんなに暖かい晩ですから、父は自分の部屋の格子窓を開けたまま、火鉢の側で何か考え事をしていた様子でした。お絹さんは風呂へ入っておりましたし、私はお勝手で下女を相手にお仕舞いをしておりました。あんまり奥が静かなので、妙に気になって行ってみると——」  お糸はゴクリと固唾《かたず》を呑みます。 「父親が死んでいたのだね——そのお絹さんというは何だえ?」 「あの、父の——」 「そうか」  要領を得たような得ないような問答ですが、これだけで、お絹というのは、五兵衛の妾《めかけ》ということがわかります。 「お前さんは、どうして入谷の寮なんかへ行っていたんだ。お絹さんとかがいちゃ、あんまり面白いことでもあるまいが——」 「私は去年の冬から身体を悪くして、店の方は人の出入りも多いし、落着いて養生も出来ないから——と、ずっと入谷の寮に泊っております。それに、お絹さんは、思ったよりは親切にしてくれますし、そんなにいやなところとも思いませんでした」 「なるほど、——ところで、それだけの事なら、何も俺のところへ飛んで来るはずはあるまい。何がいったい腑に落ちなかったんだ」  平次は静かに水を向けました。賢こいようでも若い娘は、事件の重大さに圧倒されて、ともすれば口が重くなりそうなのです。 「側には遺書がありました、が」 「どんな風に? 畳んだままか、それとも拡げて何か載せて——」 「畳んだままでした」 「文句は?」 「それがたいへんでございました。なんでも、根岸の石川良右衛門様が、公儀御腰物方から、御手入れを申し付けられた、上様の佩刀《はかせ》、彦四郎貞宗とやら——東照宮様伝来の銘刀だということでございました——その研ぎから拵《こしら》えの直しを、父がお引け受してお預り申し上げているうちに、いつ時の間にやら盗まれてしまったのだそうです」 「フーム」  平次も引き入れられるように唸りました。将軍家の腰の物を預って盗まれたのでは、なるほどその頃の社会で、人間の命が一つ二つ飛ぶのになんの不思議もありません。 「——思案に余った父は、似寄りの刀を摺《す》り上げ、銘《めい》まで刻んで、素人眼には判らないような偽物を作り、ともかくも、石川様の御手から、お係り役人まで差し上げたそうですが、二三日前、城中御道具調べの時、本阿弥《ほんあみ》の鑑定《めきき》で偽物と解り、石川様へ厳重なお達しがあったのだそうでございます」 「なるほど」  それでは自殺するのも無理はない——と平次ならずとも思ったでしょう。 「今朝は検死が済んで、何もかも父が悪いことになり、遺書は三輪の万七親分から、町方御役人の御手に差し上げることになり、葬《とむら》いの済むのを待って、改めて御沙汰があるそうでございます」 「……」  たぶん、研屋は欠所、家族は所払いにもなるでしょう。 「でも私は、どうしても、父が自害したとは思われません」 「……」 「晩酌《ばんしゃく》を一本つけさせ、いい機嫌で御飯を済ました人が、格子があるにしても、窓を開けたままで、自害をする人があるでしょうか」 「フーム」  この娘の恐ろしい慧眼《けいがん》に、平次とガラッ八は顔を見合せました。 「あんまり変だから、今朝お絹さんが役人方と話しているうち、裏口から抜け出して飛んで参りました。——本当に父親の落度で、死なければならない破目でしたら、諦めようもありますが、万一人手にかかって殺されたのなら、このまま有耶無耶《うやむや》にして、私や弟達が乞食になっては、死んだ父親も浮かび切れません。お願いでございます。親分さん、入谷まで行って、様子を見てやって下さい」  お糸はもういちど新しい激情にひたって、平次の膝《ひざ》へも取縋《とりすが》りそうにするのでした。 「そう言えば、可笑しいことばかりだ。とにかく、覗いて見るとしようか——もっとも俺が行って、かえって困るようなことを嗅ぎ出すかも知れないが、それは承知だろうな」  平次は煙草入れを腰に差しながら、お静の持って来た羽織に手を通しました。 「それはもう、親分さん、父親に罪があるのなら、乞食になっても、決して人様は怨《うら》みません」 「では、一つだけ訊くが、——お前さんの父親を殺しそうな人間は誰だろう?」 「?」 「そう訊いては返答に困るだろう。それじゃ、父親と一番仲のよかった人間は誰だい」 「石川様でございました」  お糸は言下に答えました。 「それから?」 「お絹さん」 「父親の信用していたのは」 「私と、手代の駒吉でございました」 「……」  平次は黙って外へ出ました。つづくガラッ八とお糸、——その足には、お静の貸してくれた駒下駄《こまげた》を突っかけていたことはいうまでもありません。     三  入谷へ行き着いたのは午過《ひるす》ぎ、役人は帰ってしまって、三輪の万七とその子分のお神楽《かぐら》の清吉が、弔《とむら》い客を睨《にら》め廻すように入口の一と間に陣取っておりました。 「お、銭形の、また手柄をさらいに来たんじゃあるまいね」  三輪の万七は近頃腐りきって、ヒステリックになっている様子です。 「そんなわけじゃ無い。少し聞き込んだことがあるから、万七親分に話しておこうと思って来たのさ」  平次は穏かな調子で、下手《したで》に出ました。手柄や功名は誰にさしても、それはたいした問題ではありません。事件の真相を突き止めて、悪い者に思い知らせてやるのが、平次の十手捕縄にかけた、唯一の望みだったのです。 「聞き込んだこととは?」 「五兵衛は左利きでもなんでもないのに、左首筋に短刀を突っ立てたのは変じゃないかね、三輪の」 「そんな事を言ったって、右手の短刀を、自分の左の首筋へ突っ立てられないこともあるまい」 「手が逆になるぜ」 「……」 「それに、窓を開けっ放したままで、死んでいたっていうじゃないか。景色を見ながら首を縊《くく》る奴はあるかも知れないが、暗闇を眺めながら喉を突く人間は無いよ」 「そう言えばそのとおりだが——」  三輪の万七は考え込みましたが、平次のように、素晴らしい知恵が、後から後からと浮かんで来るはずもありません。 「遺書は——? 万七親分」  平次は話題を変えます。 「八丁堀へ持って行くはずだが、もう少し考えてみる積りで、ここに持っているよ」  万七はそう言いながら、懐ろから八つ折りの半紙を二枚ほど出しました。 「なるほど、——これが遺書なんだねエ」 「本人の筆蹟《て》に間違いは無いよ」  畳の上に拡げた遺書の上へ、四人の眼が四方から注ぎました。プーンと良い匂いがします。しばらくすると平次は、 「こりゃ変だぜ」  うさんな首を傾げます。 「何が変なんだ」  と万七。 「八つ折に畳んで、長い間持って歩いたんだろう。折目がひどく痛んで、変な匂いまで付いているが、——可笑《おか》しいのは日付だよ」 「三月四日というと、昨日《きのう》だ」 「遺書は二た月も三月も前に書いたのかも知れないが、日付を入れたのは、たぶん昨日だろう。——それはいいが、遺書と日付との筆蹟が違っているのはどういうわけだ」 「そんな事がどうして解るんだ、本文も日付も、恐ろしく達者な字じゃないか。墨色だって、少しも違やしない」  万七は自分の見込みの引っくり返されるのは、毎々のことながら我慢のならない屈辱だったのです。 「三月四日の月という字を見るがいい、本文のは克明《こくめい》に二本の横棒を引っ張っているが、日付のはチョンチョンと点を二つ続けて打っているぜ」 「草《そう》と行《ぎょう》だ、それくらいの違いはあるだろうよ」 「いや、こんな癖は、草と行の違いくらいじゃ変らないのが本当だ。万七親分、この自害は少し臭いぜ」  平次はそっと囁《ささや》き加減に言うのです。この手柄は万七に譲ってやっても、事実だけは探求しておきたかったのでしょう。 「そんな事を言うなら、五兵衛の死んでいた部屋を見るがいい、雨戸を閉めたら最後、廊下から入るよりほかには、入口のないところだ」  万七は先に立って平次を案内します。寮といっても、研屋五兵衛が贅《ぜい》を尽した建築で、入口の右は居間と女中部屋とお勝手と風呂場、左はお糸の部屋で、その先二た間置いて、一番奥が五兵衛の殺された部屋になっております。 「なるほど、窓は頑丈な格子だ。縁側よりほかに曲者《くせもの》の入るところはない」  平次は無関心に立ったまま、こんな事を言います。 「縁側は薄明るいうちに下女とお糸が締めたはずだ」 「締める前から入って隠れている術《て》もあるが——」  と平次。 「それは無理だ。女三人の眼を免れて入っても、縁側も入口も閉めてしまったから、逃げ出す工夫は無い」 「……」  これは銭形平次の負けでした。窓の格子は厳重で、人間が潜《くぐ》れるはずもなく、女世帯に馴れて、雨戸は日の暮れると一緒に締めるのですから、縁側や入口から、曲者《くせもの》が入れる道理もありません。  すると——、平次はそこまで考えて大きく首を振りました。     四  五兵衛の死骸は、綺麗に洗い清めて、別間でお経《きょう》を上げておりました。集まったのは、五兵衛の倅《せがれ》友三郎、五兵衛の弟の五郎助、番頭の宗七、手代の駒吉、それに親類が二三人、根津の御用達の石川良右衛門——ざっとこんなものでした。  五郎助は前額の禿《は》げた、四十前後の狡《ず》るそうな男ですが、兄を殺すほどの悪人とも見えず、お糸の弟の友三郎は、十七八の前髪で、番頭は五十がらみの実体《じってい》な男、手代の駒吉は少しにやけた、世間並の良い男です。  石川良右衛門は苗字帯刀《みょうじたいとう》を許された大町人で、五十前後の立派な仁体《にんてい》、これは武家の出だということで、進退動作はなんとなく節度に叶っております。  ほかには死んだ五兵衛の妾お絹と下女のお百《ひゃく》だけ、お絹は商売人上りの三十女で、愛嬌《あいきょう》がボタボタこぼれそうな豊艶な女、それが大芝居で悲嘆場を見せるのは、身内の人達の大きな悩みでした。 「銭形の親分さん、有難う存じます。親分がお出で下すったんで、どんなに心丈夫だか判りません。——お店の皆さん方は仏様を今にも御徒士町へ運んで行くとおっしゃるんですけれども、それじゃ私が可哀想じゃございませんか。ここで亡くなったのも、なんかの約束事で、ね親分さん、そんなもんじゃございませんか。どうぞあの、ここから葬式《とむらい》を出すように、親分さんからおっしゃって下さいませ、ね、親分さん」  そう言ううちにも、不謹慎な手が、平次の肩へ触ったり、手を取ったり、膝へ載ったりするといった質《たち》の女です。 「いいとも。——五兵衛の死骸は、下手人が解るまでここから運び出しちゃならねえ、解ったかい、皆の衆」  平次の言葉は唐突で効果的でした。 「下手人?」  誰よりも驚いたのは、番頭の宗七と、弟の五郎助です。 「五兵衛は自害したのじゃねえ、人出に掛って死んだのだぜ」 「親分、そりゃ本当ですか」  お絹は顔色を変えて詰め寄りました。 「気の毒だが、本当だよ。それも曲者は外から入ったんじゃ無い」 「すると、あの、下手人は家の中にいたと言うんで——?」 「……」  平次は黙って一座を見渡します。 「私じゃありませんよ、親分さん。私はあの時ちょうど湯に入っていたんですもの、そんな隙なんかありゃしません」  お絹は、自分の顔に平次の視線を感ずると、口火を点けられた鼠花火《ねずみはなび》のように騒ぎ出しました。 「お前でなきゃ誰だえ」  後ろからこう言ったのは、三輪の万七です。平次の意志に引摺《ひきず》られて、いつの間にやら、五兵衛自殺説を翻《ひるがえ》したのでしょう。 「私は知るもんですか。旦那を怨んでいる者は、その辺に二人や三人はいますよ」 「誰と誰だ」 「親が承知しないばかりに、好きな男と婚礼の出来ない人もあり、少しばかりの費い込みがばれて、犬畜生のように言われた人もありますよ」  一座は白け渡って、お絹の気狂い染みた様子を見詰めるばかりです。 「それじゃ一つだけ訊いておこう。あの短刀は誰の持物なんだ」  平次は口を挟《はさ》みました。これだけ恥や義理を捨てた女なら、それくらいのことは言うかもわからないと思ったのです。 「石川さんのですよ」 「何?」  愕然《がくぜん》としたのは平次ばかりではありません。名指された石川良右衛門は、なんか弁解をする積りらしく口を開きましたが、その言葉が出る前に、 「もっとも、拵《こしらえ》の直しを頼まれたと言って、この間から旦那が持っていましたが」  お絹は言いきります。石川良右衛門のものであったにしても、五兵衛が預っていた品では問題がなくなります。  平次は改めて死骸を見せてもらいました。傷は左の首筋で、右へ突き貫けるほどの力で短刀を突き立てた上、少し刃物を捻《ひね》ったらしく、傷口が痛々しく歪《ゆが》んでおりますが、並大抵の人間の力で自分の首へこれだけ刃物を突き立てられないことは、あまりにも明らかです。 「死骸の手に血が付いていたろうか」  平次は、三輪の万七を顧みました。 「ひどい血だったよ」 「短刀の柄《つか》は?」 「鮫《さめ》が真っ赤さ。もっとも短刀の柄を握っていたわけでは無かったが」 「有難う、今度は外を見るとしようか」  平次はガラッ八だけをつれて、外へ出ました。     五 「親分、見当は?」  ガラッ八は外へ出ると、堪り兼ねて平次の耳にささやきます。 「黙っていろ、——人に聴かれちゃ悪い」  家をグルリと一と囲《めぐ》り、田圃《たんぼ》の中に建っているので、隣との連絡もなく、なんの手掛りがあろうとも思われません。 「親分、これは足跡じゃありませんか?」  八五郎は流れを越えて、格子の前へ来る荒れ果てた道を指しました。 「なるほど、足跡には相違あるまいが、恐ろしく沢山あるじゃないか。三人分か四人分の足跡だぜ」  そう言いながらも平次は、窓から離れて、小さい流れの方へ進みます。幅は一間ばかり、さして深くはありませんが、飛び越すとなるとちょっと不気味です。 「向うへ渡ってみましょうか」 「行ってみたいが、橋はないな」 「棒がありゃ越せますよ」 「向うにあるじゃないか」  平次は流れの向うを指しました。泥の中に突っ立った握り太の竹竿《たけざお》が一本。 「持って来ましょうか」  ガラッ八は身を躍らせました。危ういところで向う岸へ這い上がって、しばらくは道化《どうけ》た顔をして見せます。 「その竹竿を投《ほう》ってくれ」 「ハイよ」  ポンと投った竹竿、平次はその尖を握っていやな顔をしました。上へも下へもベッとり泥が付いているのです。 「もう沢山だ。八、帰ろうぜ」 「何か見付かりましたか、親分?」 「たいしたことじゃない。これを見るがいい」  もういちど流れを飛び越して来た八五郎の顔の前へ、平次は、竹竿の泥の中に突っ立っていた方を見せました。  泥で一と通り隠されておりますが、穴の中を覗くと、ベッとり血潮。 「ホウ」  ガラッ八は蛸《たこ》のような唇《くち》をしました。  もういちど家へ帰ると、番頭の宗七を物蔭に呼び出して、平次は静かに切り出します。 「番頭さん、本当の事を話してくれ。でないと、とんでもない者に縄を掛けなきゃならない」 「ヘエ、ヘエ、どんな事でも申し上げます」  宗七の臆病らしい顔には、何の作為《さくい》があろうとも思えません。 「娘のお糸を嫁に欲しいと言ったのは誰だい」 「駒吉でございますよ、親分さん」  手代の駒吉とお糸の仲は、平次も気が付かないわけではありません。 「主人が生木を割いたというわけだな」 「ヘエ——」 「昨夜駒吉は店を空けたんじゃあるまいな」 「昨夜は風呂が立たなかったので、町風呂へ行ったようでございました。小半刻経って、戌刻《いつつ》〔八時〕過ぎになってから、いい心持に茹《うだ》って帰って来ましたが」 「茹って?」 「ヘエ——、赤い顔をしておりました」 「それからもう一つ、店の金を費い込んで主人に叱られたというのは誰だい」  平次は話題を変えます。 「申し上げなきゃなりませんか、親分さん」 「当り前だ」 「主人の弟の、五郎助さんで」  平次とガラッ八は顔を見合せました。また一人大きな疑いを背負いそうな人間が現われたのです。 「その五郎助は昨夜|酉刻《むつ》〔六時〕から戌刻《いつつ》までの間どこにいたんだ」 「本所の御屋敷から呼び出されて、昼過ぎから参り、戌刻過ぎにようやく帰って来ましたが」 「あとは昨夜店をあけた者はあるまいな」 「ヘエ——」 「ところで、これはよく気をつけて正直に返事をしてもらいたいが、研屋の暮し向きは近頃どんな具合になっているんだ。昔のような事はないという評判も聴くが」 「ヘエ——」  宗七は返事に困った様子です。 「どうだ、宗七」 「申し上げます——いずれは知れることでございましょう。——旦那の遊びがひどくなって、この三年ばかりの間に大変な穴をあけてしまいました」 「フーム」 「去年の暮れにはどうしても、三千両から五千両ないと越せませんでした」 「で?」 「幸い石川様が融通《ゆうずう》して下すって研屋の身上を建て直したようなわけでございます」 「どれほどの融通だ」 「三千五百両ほどでございます」 「少し大きいな」  いかに公儀御用達でも、三千五百両は大金です。それも心易いというだけの研屋に貸すのは、何か事情がありそうにも思えるのでした。 「ところで、あの石川さんの頼んだ短刀はいつ出来上がったんだ」 「一昨日《おととい》でございます」 「それからもう一つ訊くが、——遺書のことは屡々《しばしば》聴いたことだろうな」 「ヘエ——」 「上様|御佩刀《おはかせ》の彦四郎貞宗を盗まれたというのは、いつのことだ」  平次の問いはようやく核心に触れて行きます。 「そんな事は一向に存じません」 「何?」 「遺書のことを聴いて、びっくりしているだけでございます。もっとも旦那がお申し付けで、彦四郎貞宗の偽物は作りましたが——」 「それはいつのことだ」 「去年の暮れでございます。長目の刀を摺り上げて、偽《にせ》の銘《めい》まで切らせました」 「拵《こしら》えは?」 「鞘も柄も目貫《めぬき》も鍔《つば》も、旦那がどこかからお持ちでございました」 「フーム」  平次は唸りました。  番頭の言うことが本当なら、偽の貞宗は研屋の手で作らせたが、盗まれたという刀の鍔や柄や鞘は五兵衛がどこからか持って来たのです。  それが新しく拵えたものでないことは、玄人《くろうと》の番頭がよく見ていたことでも証明されるでしょう。  事件の奥底は、これで際限もなく深くなって行きました。銭形平次もさすがに、腕を拱《こまぬ》いて唸るほかはありません。     六 「ちょいと、明るいところへ顔を出してもらおうか」  平次は手代の駒吉を、縁側の陽の中へつれ出しました。 「ヘエ——」 「白状してお慈悲を願った方がいいよ」 「親分」  駒吉は舌が引きつって、しばらくは言葉も出ません。はげしい恐怖が五体を走って、ワナワナと顫《ふる》えるのです。 「町内の風呂屋へ行って訊《き》くまでもあるめえ、顔へ紅なんか塗りやがって——御徒士町からここまで、駈けて来て主人を殺したろう」  平次は駒吉の肩先を掴《つか》んで、なおも陽の方へその顔をさし向けるのでした。 「親分、違います。私が殺したんじゃありません」 「それじゃ誰だ」 「御徒士町からここへ駈けつけて、格子の外から覗くと、旦那はもう短刀を首筋に突っ立てて死んでおりました」 「嘘じゃあるまいな」 「私はお嬢さんに逢いに来たんですが、あんまりびっくりして、そのまま飛んで帰りました。嘘も掛引きもない話です」 「誰にも逢わなかったか」 「誰にも逢いません」  疑いは全く解消したわけではありませんが、顔へ紅を薄く塗って、町風呂へ行くと見せて女に逢いに来るような男が、格子を隔てて、三尺も奥にいる、主人を刺し殺せる道理はありません。  その次に呼び出されたのは、主人の弟の五郎助でした。 「兄の五兵衛には、手ひどくお叱言を言われたそうだな」  平次は調子を変えて、この喰えないような中年男に相対します。 「滅茶苦茶にやられましたよ。費い込んだのはほんの五六十両で、それをあんなに泥棒扱いにされちゃかないません」 「それで怨《うら》みを言いに、昨夜ここへ来たのか」 「えッ」 「隠すな。本所のお屋敷を出た時刻を訊くまでもなく、俺にはよく解っている」  平次の言葉は自信に充ちております。 「……」 「お前が兄を殺したとは思っちゃいない——唯、ここで見た事を言いさえすればいいのだ」 「恐れ入りました、親分さん。——正直のところ私は、兄貴を打ち殺す積りでここへ来ました。酉刻半《むつはん》少し過ぎだったと思います。表は締っているので、裏へ廻って来ると、兄貴の部屋にはカンカンに灯《あかり》が点いて、格子の外には、黒い人影が見えました」 「……」 「私の足音を聞くと、人影はあわてて格子を離れ、あっと言う間にあの流れを飛び越して逃げてしまいました。——呆気《あっけ》に取られて格子の外から覗くと、兄貴は首筋を短刀で刺されて、もう息が絶えた様子——」 「それを見ぬ振りで帰ったのか」 「天罰ですよ、親分さん。私の兄には相違ありませんが、あんな悪い人間はあるものじゃございません。まごまごして兄殺しにされちゃ合いませんから、私は一目散に逃げました」  こんな薄情な弟が、兄を悪人呼ばわりするのですから、二人の日頃の仲も思いやられます。 「で、逃げた曲者が、何か持っていたはずだ。それに気が付いたか」 「そう言えば二間くらいの竹竿を持っていましたよ。流れを飛び越す時も、それを使った様子で——」 「それでいい」  平次は五郎助を向うへ追いやると、もう一度考え込みました。 「親分、これは一体どうした事でしょう。この家を覗いた奴は二人も三人もあるのに、殺した奴は一人も無いなんて、——やはりあのベタベタした妾が怪しいんじゃありませんか。風呂へ入る前にちょいとやって、風呂場で返り血を洗えば、後へ何にも残りゃしませんよ」  ガラッ八には、ガラッ八だけの考えがありました。 「女の力で、あれほど短刀は打ち込めないよ」 「……」  ガラッ八はポリポリと盆の窪《くぼ》を掻きます。 「親分さん、駒吉はなんにも知りゃしません。縛らないでしょうね」  そっと後ろから近づいたのはお糸でした。自殺で済ませば済んだのを、うっかり銭形平次を誘い出して、恋人まで疑いの俎上《そじょう》に上《のぼ》せるようになったのは、若い勝気な娘の我慢のならぬことだったのです。     七  その晩、平次は八丁堀の与力、笹野新三郎の役宅を訪ねました。 「平次、厄介なことが起ったな。研屋五兵衛の遺書《かきおき》が表沙汰になると、御腰物方が三人、腹切り道具になるが——」  笹野新三郎が暗い顔をするのも無理のないことでした。将軍の佩刀《はかせ》、——東照宮伝来という由緒のある品が、偽物と掏《す》り替った上、そのために世上の口に上る騒ぎまで起しては、係の役人の面目が立たないことになるのです。 「そのことでございます。まだ判然《はっきり》いたしたわけではございませんが、ことによれば、真物の彦四郎貞宗が戻るかもわかりません」  平次は静かながら、自信に充ちた調子でした。 「それは本当か、平次」  笹野新三郎も思わず膝を乗り出します。 「つきましては、あの御佩刀を、もう一度拝借いたしとう御座います。拵えに不行届きなところがあるとか何とか、名目はいくらもあると存じます。もう一度石川良右衛門に御貸し下げ下されば三日のうちに、中味を真物の貞宗と入れ換えて、お返し申し上げられると思いますが」 「そんな事なら、なんとかなるだろう。早速取りはからってみるとしよう」 「それで、万事無事に納まりましょう。それでは、くれぐれもお願い申し上げます」  平次は妙なことを頼み込んで引き下がりました。  笹野新三郎から町奉行に申し入れ、町奉行から、御腰物方に伝えて、翌る日の午後《ひるすぎ》にはもう、『拵え不行届』という名目で彦四郎貞宗を、もう一度、根津の御用達石川良右衛門の手に戻されたのです。  銭形平次は、その晩、根津の豪華な屋敷に石川良右衛門を訪ねました。 「何? 銭形の親分が来た、——丁寧《ていねい》に奥へ通すのだよ」  石川良右衛門は、訪問者の名を聴くと、座を移して、奥の客室に迎えます。 「旦那、とんだお邪魔をいたします」  相手は町人ながら苗字帯刀を許された身分、平次は謙遜《へりくだ》って挨拶しました。 「用事というのは? 銭形の」  石川良右衛門はさすがに落着きを失っております。 「ほかでもございません、——研屋五兵衛の遺書に伽羅《きゃら》の匂いの浸み込んでいたことを御存じでしょうか」 「……」 「最初は結構な煙草かと思いました、——恥かしながら、伽羅や沈香《ちんこう》というものを、嗅いだこともない私で、あれが伽羅と判るまでに、とんだ苦労をしましたよ」  平次は淋しく笑います。 「で?」  石川良右衛門は冷静を取り戻しました。 「五兵衛を刺した短刀は、あの前の日、五兵衛から旦那に返したことが解りました」 「何?」 「証人は五兵衛の娘のお糸、——変な羽目で、入谷の寮で、父親の五兵衛が旦那に手渡すところを見たのだそうです」  平次の論告は次第に急になります。 「それがどうしたというのだ、——つまらない言い掛りをすると、御上の御用を聞く者でも、許しては置かぬぞ」  石川良右衛門は威猛高《いたけだか》になりました。五十年輩の押しの強さ、銭形平次は危うく踏み止って陣を立て直します。 「旦那、まだありますよ、——身上を潰してしまった研屋五兵衛に、三千五百両という大金を融通したのは、ありゃ、何のためでした」 「ぶ、無礼なことを言うな、金の貸借は町人の常だ、——」  岡っ引の指図は受けぬわい——と言う積りでしょうが、さすがにそれは口の中で噛み潰しました。 「旦那、どうぞ、本当の事をおっしゃって下さい。後のことはこの平次が引き受けます」  平次はひるむ色なく詰め寄るのです。 「……」 「御腰物方から、貞宗はもう一度戻ったはずです。旦那の出ようひとつでは、私はその中味を真物《ほんもの》と入れ換えて、何もかも元のとおりにして上げられると思います」 「……」 「旦那が言いにくいなら、私から順序立てて言ってみましょうか」  平次の自信に圧倒されて、石川良右衛門もさすがに口を緘《つぐ》みました。 「たぶん非曲は研屋五兵衛の方にあるのでしょう、旦那はどうしても、あの男を生かしては置けなかった——」 「……」 「前の日、五兵衛から受け取った短刀を持って行くと、ちょうど入谷の寮の四方《あたり》には人もなく、五兵衛は格子の中で、何か考え事をしておりました」 「……」 「格子の中の五兵衛を殺す工夫は、たった一つしか無い。幸い窓の外にあった、二間ばかりの竹竿を拾って、その先へ、五兵衛から受け取ったばかりの直刃《すぐは》の短刀を差しました。——竹の先は少し割れている、短刀を差し込んでみると節のところでピタリと止って、手ごろな槍のようになった」 「……」 「武家出の石川良右衛門は、槍は名誉の腕前でした。窓の外へ忍び寄ると、何にも気のつかずにいる五兵衛の左首筋へ、格子の外から存分に突っ立てた。竹を捻って引くと、幸か不幸か、短刀は五兵衛の首筋に残って、竹竿だけ手元に戻ったのです。——そのうちに人が来た様子、竹竿を持ったまま驚いて逃げ出し、その竹竿を使って流れを飛び越した上、血の付いた方を泥に突き差して、そのまま逃げてしまった」 「……」 「旦那、これで間違いは無いんでしょうか」  平次は静かに語り終るのでした。その場の場景を見たような話し振りです。 「そのとおりだよ、平次」  静かに応ずる良右衛門。 「ヘエ——」 「よくも捜《さぐ》った。——さすがは銭形の親分、恐れ入ったよ。——私はもう覚悟を決めている。逃げも隠れもするわけではない」  石川良右衛門はそう言いながら、一刀を取り上げました。 「待って下さい、旦那、研屋五兵衛を殺さなければならなかったわけ、それを承りましょう」  平次は良右衛門の覚悟の手を止めます。     八  石川良右衛門は、研屋五兵衛の懇望《こんもう》のまま諸大名はいうまでもなく、公儀の御用までも取り次ぎ、この十年の間に、めっきり研屋の暖簾《のれん》をよくしてやりましたが、五兵衛は女道楽と勝負事が好きで、最近二三年の間に、さしもの身上をすっかりいけなくしてしまったのでした。  御腰物方から、東照宮伝来の佩刀《はいとう》を頼まれたのは去年の夏、五兵衛に拵えを直させて、石川良右衛門の家へ持って来ると、ある夜泥棒が入って、それを奪られてしまいました。  良右衛門の驚きはいうまでもありません。さっそく五兵衛に相談すると、偽物を作ってともかくも一時は凌《しの》ぎ、そのうちにゆるゆる真物の行方を捜し、金に飽かして買い戻すよりほかに途はあるまいということになり、五兵衛はさっそく偽物を拵え上げ、鞘《さや》から鍔《つば》まで、寸分違わぬ物を持って来て、石川良右衛門の手で、それを御腰物方に収めたのは去年の秋です。  それが、本阿弥《ほんあみ》の鑑定《めきき》で、偽と知れたのはツイ近頃、——その前に万一の時の事を五兵衛に相談すると、佩刀を盗まれた落度から偽物と掏り換えの罪は、みんな五兵衛が自分で引き受けるから、五千両という大金を貸せという難題です。五兵衛はその金で傾く身上を持ち直し、倅友三郎、娘お糸の行方を安泰《あんたい》にした上、露見した時を最後に、自害して果てるという大変な条件を持ち出したのです。  五千両を三千五百両に負けさせ、その代り、五兵衛は貞宗紛失から偽物作りの罪を一身に引き受けた、日付のない遺書を作って、金と引換えに石川良右衛門に渡したのは去年の暮れのことでした。 「それからしばらく無事な日がつづいた。が、年に一度の御道具調べがあって、とうとう偽物の露見する日が来てしまった。御腰物方からは厳重な談判だ。日ごろの勤め振りに免じて、今すぐ真物を返すなら、これほどの罪だが許してやるとまでおっしゃる。御腰物方御役人にしても、これが表沙汰になっては腹切り道具だ」 「……」  石川良右衛門は、奇怪至極なことを語り進みます。 「一方、研屋五兵衛は、腹を切るどころの沙汰か、せせら笑って私の言うことなど相手にしない。強《し》いて談じ込めば、事荒立てて、罪をこの良右衛門一人に被《き》せようと言うのだ。あまりの事に、たまり兼ねて、最後の覚悟を定め、かねて用意した五兵衛の遺書に日付まで入れて行った晩の事は——平次、お前が見通したとおり、寸分の違いもない」 「……」 「この上は何とでもしてくれ、善悪はともかく、人一人を殺した私だ、素より生きていようとは思わぬ——」  さすがは武士の出でした。石川良右衛門、一身投げ出して、もはや悪びれた色もありません。 「よく解りました、旦那、そうおっしゃって下されば、私にも致しようがあります。その貞宗の佩刀を持って、ともかくも、私と一緒に入谷まで、お出で下さいませんか」 「どこまででも行こうよ」  二人は根津から入谷へ、——薄暗い早春の夜風を衝《つ》いて急ぎます。     * 「八、変りは無いか」  平次は寮の入口から声を掛けました。 「二日見張ったよ、親分。一人も出さず、一人も入れずさ、——それから、箸《はし》より重いものは、誰にも持たせねえ」  八五郎はヘトヘトに疲れながらも元気よく応えます。 「それはいい塩梅だ」  平次は石川良右衛門と一緒に中へ通ると、八五郎、三輪の万七、お神楽の清七を手伝だわせて、徹底的に家の中を探させました、天井《てんじょう》から床下《ゆかした》から、押入れも、戸棚も、土竃《へっつい》の中も、羽目板の後も、絶対に見落さないはずですが、夜中までかかって、小刀一梃、いや、針一本見付からなかったのです。  それから、畳を割《さ》き柱を叩《たた》き、戸障子の桟《さん》から、敷居まで剥ぎ廻りました。 「駄目だ、親分」  まず八五郎が悲鳴をあげます。一と晩の労働にヘトヘトになって、朝の光の射し込む頃は、皆んなの顔は絶望と疲労に土色になっていたのです。 「旦那、あの晩、短刀を差し込んだ竹竿はどこにありました」  平次は突飛なことを訊きます。 「軒下に立てかけてあったよ」  良右衛門は無関心に応えました。 「物干竿には短いし、心張棒には長いし、やはりあれかな」  平次は外へ飛び出すと、問題の竹竿を持って来ました。 「八、鉈《なた》を持って来てくれ」 「ヘエ——」  朝の光の中——縁側でサッと割ると、 「アッ、刀」  竹竿の中から出たのは、拵えを取り払った、彦四郎貞宗の一刀に紛《まぎ》れもありません。  平次はそれを偽貞宗の代りに元の鞘に納め、呆然として我を忘れた石川良右衛門に返しました。 「旦那、これをすぐ御腰物方に届けて下さい、この上魔がさしちゃいけません」 「有難い、平次親分、この御礼は——」  石川良右衛門は畳の上に手を突いておりました。 「三千五百両で沢山ですよ、——さア、早く、——二度と入谷へ足を向けちゃいけません」  石川良右衛門は、夢心地で立ち去りました。  それに続いて、何が何やら解らぬままに引き揚げる三輪の万七とお神楽の清吉。後に残った平次とガラッ八は、これも驚き呆れるお糸に暇を告げて、こう付け加えるのでした。 「お糸さん、父親のことは諦《あきら》めるがいいぜ。御徒士町の店は立派に立ち行くだろうから、お前は駒吉と一緒になって、弟を見てやるさ」 「……」  お糸は美しい眼を挙げました。父の敵はとうとう判らず、平次にお礼を言っていいか悪いか、その見当さえ付かなかったのです。 「八、娘や倅に罪はないよ。——石川の旦那も、あの大身代から、三千五百両出して、自分の首を繋《つな》いだと思ったら腹も立つまい」  帰り途、平次は面白そうにこう言うのでした。 「何が何やら、少しも解らねえ」  ガラッ八の鼻は蠢《うご》めきますが、事件の本当の匂いは、どうも嗅ぎ出せそうもありません。   (完)